逢瀬のふたりは離れ難い

リクエスト内容:「彼女の籠絡はわかりやすい」の続編。 日常の甘い話


「おかえりなさい、先生」

久々に対面したゼノ先生は玄関先で驚いたように目を見開いて手に持っていた紙袋と鞄を乱雑に放り投げた。後ろ手で手早く鍵を閉めた彼はそのまま、がばり!と私の体に飛び付いてくる。それに思わず声を漏らすと、彼から笑声が漏れた。

「ただいま、愛しのハニー。僕がいなくても平気だったかい?」
「毎日コールしてきたくせによく言うわ」

耳が痛いなんて思ってもないことを呟きながらそのまま彼の唇がおでこに落ちる。そうしてそのまま私の腰を抱いて「中へ」と誘導するのを咎めた。床に投げ捨てられた資料や鞄を指差してゼノ先生をじろりと睨む。

「先生、荷物」
「今必要かい?」
「当たり前でしょ」

君がいればなにもいらないんだが、とぶつぶつ文句を言う彼に荷物を拾わせて一足先にリビングへ向かう。その後ろから慌てたような足音が聞こえて、それをクスクス笑った。

ゼノ先生の長期出張が決まってから数ヶ月。ようやく彼が仕事を終えて家に帰ってきた。まさか私が彼の部屋に越してきて一月も経たないうちに家主がいなくなるとは思わなかったけれど、それももう数ヶ月前の話。
出張へ行く直前までまだ配属すら決まっていない私を同行させるために上と交渉を始めたときはどうなることかと思ったが、無事仕事を終えて戻ってこれたらしい。ちなみに家を出るギリギリまで「君の価値がわからないとは!愚かな!あっもしや名前が優秀だから外に出したくなかったのか?!航空宇宙部門のセクハラジジイには気をつけたまえ!」と悪態をついていた。それを送り出して、ようやく再会できたわけである。

「毎日ラブコールはしていたがやはりこうやって君に触れられるほうがよっぽど有意義だ」
「はいはい、スーツ皺にならないうちにかけちゃってね」
「そうだ!聞いてくれ、昨日のとんでもなくしょうもないトラブルの話なんだが」
「先生。スーツ」

コラ、と彼の話を遮るとピタリと動きが止まった。そして少し拗ねたように唇をぎゅっと閉ざして私からハンガーを受けとる。しゅるりとネクタイやチョーカーに手をかけて、そのままジャケットを脱いでしまう。それらをハンガーに引っかけて皺にならないよう伸ばしたあと、クローゼットへ片付けに自室へ向かった。
すぐにリビングに帰って来た彼はコーヒーを淹れようとしていた私を捕まえて「そんなものより君がいい」とずるり、ソファーまで引きずった。ああ、せっかくゼノ先生が好きな豆を取り寄せたのに。

「先生疲れてないの?」
「君の顔を見たら吹き飛んでしまった。これでも徹夜明けなんだがね」
「それ、ハイになってるだけでしょ…シャワー浴びてもう今日は休んでください」

夕飯は食べた?と聞こうとした私をソファーに座らせて隣にずいっと座る。そして頬にキスされたかと思いきやそのまま抱きついて肩に顔を埋められた。
こりゃダメだ、話を聞いてくれない。

「荷物も回収したし、スーツも片付けた。これ以上なにをすればいいって言うんだ」
「だから今日は休んでって」
「嫌だ」
「い、嫌だって…」

ゼノ先生の顔を見ると普段からあまり良くない顔色がより一層暗い。目の下には隈、唇はかさついている。相当忙しい現場だったようだし、私としては休んでほしいんだけれど彼にはこの思いは届かなそうだ。
甘えるようにぐりぐり彼の額を肩に押し付けられて「もう」と小さく彼の体を案じるとまたピタリと彼の動きが止まった。あ、これたぶんめんどくさいこと言い出すな。

「…僕は君と離れていて寂しかったんだが、君はそうじゃないのかい」

ほらめんどくさい。
そもそもその質問、昨日のラブコールでも聞いたわよ先生。そう叩きつけてやりたかったが、疲れている彼にそんなことを言ったらきっとへそを曲げてしまうだろう。仕方ない、とため息をのみこんで「先生」と彼を呼んだ。

「すごく寂しかった。こんなに離れていたの、久々だったから」

学生の頃は毎日連絡なんて取り合ってもいなかったのに、少しでも彼との生活を知ってしまえばなかなか離ればなれが耐え難い。
朝起きたらゼノ先生がコーヒーを淹れてくれていて顔を洗ってくるように促す。顔を洗ったついでに化粧をしていると「コーヒーが冷めてしまうよ!」といじわるに笑う彼。慌てて終わらせてリビングに顔を出すと「そんなものしなくても君は十分可愛いのに」と小言を言われて、一緒に朝食を摂る。
そんな朝を一日でも過ごした私が数ヶ月もの間、あなたのコーヒーを飲めていなかったのだから寂しかったに決まっている。…絶対に言ってあげないけど。

「昨日はなにがあったの?聞かせて、先生」

そう言って彼の頭を撫でながらおでこにキスするとゼノ先生から「そうだ、聞いてくれ」と少し嬉しそうな声が上がった。
そう、本来なら先生は昨日仕事を終えて帰ってくる予定だったのだ。私もそれを楽しみにしていたけれど、昨日いきなり「帰れそうにない」なんて連絡が入った。職場でトラブルがあったことは耳にしたが詳細は聞いていない。一体彼がどんな災厄に巻き込まれたのか、私はまだ知らないのだ。

「結論から言うと、朝イチに一ヶ月分の作業データが吹き飛んでね」
「ああ…復旧作業で自分が作った暗号化プログラムに時間が取られたわけね」
「そうなんだよ!どうなることかと思ったね!」

もちろん、データを飛ばしたのは僕じゃないんだが。と盛大なため息をついた。先生が作った暗号化プログラムを解読、なんて考えたくもない。そして彼自身も自分の才能にしてやられたわけだ、本当に現場は大混乱だっただろうな。

「ヒューマンエラーが最も愚かだと再確認したね!しかも前日に荷物をこちらに送ってしまったものだから手元に白衣すらなくって本当に参った」
「どれだけリスク分析したって起こりうることだからね。本当にお疲れさまでした」

その現場、私は絶対居合わせたくないという本音は呑み込む。しかし私の微妙な表情を読み取ったのかゼノ先生がクスクス笑った。

「名前はクラッキングが苦手だからね。この前僕のプログラムを見て目を回していた」
「必要なのはわかっているけれどエンジニアにはなれないって毎回思うわ…」
「いいじゃないか、君は科学者だ。ただ、僕についてくるつもりならそろそろ簡単なプログラムくらい組めてもいいと思うがね」

なにが簡単なプログラムだ、この前は上司のパソコンデータ引っこ抜かせようとしたくせに。しかしこのNASAの叡智さまに食らいついていくなら必要な技術らしい。確かこの家に技術書があったはずだから先生が寝付いた頃に拝借して少し勉強しよう。
そうひそかに意気込んでいるといきなり先生が「そうだ!」と大声を出した。私のびくりっという驚きなんておかまいなし、先生は興奮気味に話を切り替える。

「向こうについてすぐに幼馴染に会ったよ。軍備についての仕事だったからもしかしてと思ったが予想は的中した。彼は相変わらずスピード出世をしているようで僕も鼻が高い」
「その話は聞いたことなかった。先生の幼馴染って軍人なのね、意外だな」
「おや、スタンの話はしたことがなかったかな?彼は実にエレガントな軍人だよ、入隊してたった数ヶ月で小隊を任されたほどさ!」

ペラペラとその幼馴染…スタンさん?の話をする先生は楽しそうだ。本当に仲がいい幼馴染らしい。それにしても、結構癖が強い先生とそれだけ長い付き合いができる凄腕の軍人…想像がまったくできない。
先生同様の変人…失敬、少し変わった人か、よっぽどの苦労人か。前者のような気がするけれど俄然興味が沸く。いつかNASAの仕事をしていたら遭遇しそうなものだけれど、一度抱いた好奇心を抑えられるほど私は立派ではない。

「会ってみたいな、その人に」
「おお!実にエレガントな提案だ!僕も君を紹介…」

急に先生が言葉を止めた。あれ?と首を傾げながら先生?と彼を呼ぶとぐりっとおでこを再び肩に埋められた。そして先生の腕が体に回されてぎゅう、と彼に捕まってしまった。

「…やっぱり会わせたくないな」
「どうして?」
「彼はその…とっても格好いいからね。君をとられてしまうかも」

弱々しくそう呟いた先生は、抱き締める力を強める。彼がそんなことを言うとは思わなくって面を食らってしまうがそんな彼にきゅう、と胸を締め付けられた。彼に可愛いと言ったら怒らせてしまうかな?なんて考えながら自分にまわっている腕にぎゅっと抱きつく。それにしても、いつも自信たっぷりの彼にここまで言わせるなんて。何者なんだろう、スタンさん。

「先生、心配しなくても私は先生を愛してますよ」
「どうだか、君だって格好いい男が好きだろう」
「先生。私は先生のことが世界で一番格好いいと思ってますよ」
「男の趣味が悪いね」
「確かに先生は格好いい部類の男の人ではないですが」
「え」

そこは嘘でも格好いいと言ってくれ!と耳元で糾弾を受ける。うわ、うるさ…と思ったものの今の彼にそれを言うと面倒なことになりそうだ。だからごほん、と卑屈な彼に話を続けた。

「私は先生が研究をしているときの横顔が好きです。私の論文を読んでいるときの楽しそうな顔やそれを批判するときのしたり顔。そのくせちゃんと評価してくれて…傍に置いてくれる。科学に向き合っている先生はすごく格好いい。時々イライラしながら仕事をしているときはハラハラするけど…そこも含めて!私はあなたを愛してる」
「名前…」
「その軍人さんは私の論文を読んでくれますか?傍に置いてくれますか?無理難題を押し付けて楽しそうにケラケラ笑いますか?それをクリアしたとき思い切り褒めてくれますか?離れるのが嫌だからって最後まで上と交渉して暴れてくれますか?」
「………そんなの僕くらいだろうね」

なら、私にはあなたしかいない。
そう笑って彼の顔にすり、と頬を寄せる。すると先生が思い切り体重をかけてきてそれに耐えきれず体がソファーに落ちる。そこに先生が覆い被さってきてそのまま唇が重なった。指を捕らえられて絡まり合う。
…離れた唇の隙間から「愛してる」と消えそうな声がした。

「君を愛している。君が思っているより、ずっと深く」

ちゅうっと何度も唇が重なって、そのたびに愛していると言葉を吐く。それがなんだかむず痒くて「わかってる」を返そうとしたけれもその隙を彼は寄越してはくれない。
しまった、この人徹夜明けでハイな上に仕事で疲れているからかいつもより執念深い。このままだとソファーで朝を迎えることになってしまう、と絶えだえの「待って」を必死に伝える。

「せんせ、もう今日は」
「…君、今日はずっと先生と呼ぶつもりなのかい?」

拗ねた声と眉間に寄る皺。そのまま吸い付かれたのは喉元で、主導権は完全に彼のものだった。だ、ダメダメ、私が流されたらこの人二徹することになるのよ?!もう若くないんだし意地でも寝かさないと。

「…ゼノ」
「…ああ、やっぱり君に名前を呼ばれるのは心地がいいな。最近君はずっと仕事モードだったから」
「お願いがあるの」
「なんでも聞くよ、My sweetie」
「今日はもう休んで。明日たくさん…その、あ、愛しあいましょう」
「君はワガママだな、どうしても僕を寝かせたいらしい」

なんでも聞くと言ったくせに人をワガママ呼ばわりするなんて。まったく酷い人。
むう、と唇を尖らせたせんせ…ゼノは、ぽすり私の胸に顔を埋めた。そして仕方ないな、とぼっそり呟いた。

「わかった、今日は君の言うことを聞こう」
「そうして、ダーリン」
「ただ」

がばっと顔を上げて下から私の顔を覗きこむ。眠そうにゆっくり動く瞼とつり上がった唇は私に条件をつきつけた。

「今夜は一緒に眠りたい」

ダメかな、とお伺いを立てられてしまっては仕方ない。思わずクスクス笑って「もちろん!」と彼の指を握ると安堵するような声が漏れた。そこからまた、何度か唇を啄まれてソファーに溶けていくふたり。

「…仕事でなにかあった?今日はずいぶん甘えたさんね」

しかも普段よりよっぽど嫉妬深くて執念のようなものを感じる。絶対に離さない、と彼の瞳がそう語っていてその理由が気になった。

「…笑わないで聞いてくれ」
「ええ、もちろん」
「離れているあいだ、ずっと不安だったんだ。僕がいない間に他の男に取られてしまうんじゃないかとか、家に帰っても君はいないんじゃないかとか、僕との再会を喜んでくれないんじゃないかとか、数えきれないほど」

笑わないでと言われたもののいつも自信家で意地悪なゼノがしょんぼりしながらそう告げるものだから声を圧し殺して笑ってしまう。私に乗っているゼノはすぐにそれに気づいて「だから言いたくなかったんだ!」とおしおきだと言わんばかりに首もとに噛みついた。ああ、本当に可愛い人。私をこんなに愛してくれる人なんて、彼くらい。

「ふふ、馬鹿な人」
「君が電話に出なかった日はスタンを呼びつけて深酒までした」

………なんだかその軍人さんと仲良くなれる気がする。しかしこれを言ってしまえばまたゼノはくどくどと私に愛を押し付けるだろうなぁ。絶対に口には出さないでおこう、面倒だから。
このままソファーに居座ろうとするゼノに「先生、寝るならベッド」と叱責をすると「君は本当にワガママだ、そんなところが可愛らしい」と笑う。今日のゼノはどうしても私をワガママな子として扱うらしい。それなら私は飛びっきりワガママなおねだりをしてやろう。

「次の出張は私も連れていってね」
「…おお、任せてくれ。次こそは押し通してみせるよ」

結局私もあなたと離れ難い。そう仕事に私情を挟んでしまうことを、どうか許して、先生。

公開日:2021年2月12日