その愛してるは伝わらない! 後編

緊急事態だ。
先程事件が起きた廊下に名前がいない。なんならガラスの破片も一欠片も落ちておらず、ガラスのない窓には仮窓として木が埋め込まれていた。こんな手際が良い処置をして一体どこに行ったのやら、ぐるりと周囲を見回しても名前は見当たらない。
医務室かな、とそちらへ向かうもそこももぬけの殻。ただ、消毒されたピンセットと少し消費された包帯が名前がここを訪れたあとなのだということを知らせていた。僕と別れてからたった数十分で床の片付け、窓の処置、自分の手当てまで終わらせてしまったという。用事が終わったなら研究室に姿を現してもいいはず、けれど彼女は研究室には来なかったしすれ違いもしなかった。
ならばどこに、とただ行く宛もなくさ迷うしかない。いっそ無線で呼び出してやろうかと思いもしたがこんなことで呼び出す僕を名前はなんて思うだろう?そもそもずっと傍にいた名前の行きそうな場所すらわからないというのは少しばかり情けなくはないか?いやもう十分情けないところばかり見せてはいるんだけれど。

しばらく城内をうろついて色んな人に名前の所在を聞いてはみたがどうしても見つからない。首を傾げながらきょろきょろと彼女を探す僕は周囲にも滑稽に見えただろう。
ようやく手掛かりを見つけて庭に向かう頃には研究室からまた数十分が経過していた。歩いていただけなのにとんでもなく疲労を感じる体に「運動不足だろうか…」と苦笑してしまう。まだ年齢のせいにはしたくはない。

「名前!」

視界に捉えた名前を大声で呼び止めると少し驚いたように慌てて振り向く。僕をちらりと見ると唇を少し震わせてなにか言おうとしたが、すぐに唇を閉じて僕の元へ駆け寄って来た。姿勢をまっすぐキープして軍人らしく走る名前に思わず頬が緩んでいく。彼女がやること成すことすべてが愛らしいのだから重症だ。

「ゼノ、どうしてここに?」
「君を探してたんだ」
「本日はライフル調整と整備の予定では?私がいなくとも遂行可能のはずですが…」
「それはスタンに任せてきたよ」

その言葉に「え゛」と珍しく低い声を出す名前。上官に作業をさせていると言い放った僕に動揺しながらあわあわと「は、はやく隊長の元へ行かないと」なんて狼狽する。そんな真面目で今すぐにでも研究室へ飛んで行ってしまいそうな名前を慌てて引き留めた。

「今日の予定はもういいんだ、少し名前と会話がしたくて」
「…それは今後のスケジュールの再編成ということでしょうか?」

しまった、あまりにも個人的な会話をしてこなかったせいで名前には事務的な会話しか通じない。これは完全に彼女を勝手に諦めてきた僕が悪い。

「…違う、個人的な話がしたいんだ」
「え?」

彼女の気の抜けた声を初めて聞いた。思わず、つい漏れたその声に目を細めてしまう。元軍人と言っても普通の女性だ、こう言えばきっと名前にだって伝わる。現に少し悩み込んでしまった名前が瞳を揺らしていた。

「つまり」
「うん」
「別行動時の報告をすればよろしいのでしょうか?」
「おお、違う、違うよ!わかった少し移動しよう近くにベンチがあったろう?そこへ行こう!」

まさかの返答に困惑を隠せない。思わず「もしかして君、男に口説かれたことがないのかい」なんて口走りそうになったがそんなことを言ってしまえばセクハラも良いところだ。いくら好意があると言っても瞬時に嫌われかねない。
名前を連れてベンチへ向かって、座らせる。隣に腰かけると柔らかに名前が微笑むものだから普段は笑わないと言ったスタンの言葉が改めて信じられなくなってしまった。

「まず怪我の具合は?」
「かすり傷ですのでお見せするほどではありません」
「おお、それじゃあ困るんだ。君はもう少し僕を頼ってくれてもいい」

強情に傷を見せろと強要するとしぶしぶ名前が戦闘服の袖を捲った。数ヶ所破れてしまっていた袖からは白い肌が徐々に露出されていき、白い包帯が顔を覗かせる。しかしその包帯は一部が赤く染まり、少し動かすだけで苦痛に名前の表情が歪んだ。

「これがかすり傷?」
「銃創に比べれば大したことは…」
「いいや、見せてもらうよ」

応急処置セットを持ち出していて良かった、と箱から包帯を取り出す。そして器用に巻かれた包帯を暴けば三ヶ所の裂傷が視界に飛び込む。

「どう手当てを?」
「まず流水で流し、傷の内部まで洗浄を。残った破片はピンセットで取り除き直接圧迫止血方を行ったのち、止血帯止血方を行っている最中でした」

そう説明している間も圧迫されて止まっていた血液が彼女の腕を伝い出した。慌てて手袋を外して包帯を手に取り、改めて処置を施すとこの期に及んで「お手を煩わせるわけには」なんて言葉を吐く。

「確かに君の処置は正しい。悔しいほどにエレガントだよ、なにひとつ間違っていない」
「ならば私にお任せください」
「でもね、君にこんな怪我をさせてしまった僕はどうなる。痕が残ったらと思うと気が気じゃないよ」
「…あなたが気にすることでは」
「いいや、気にする。だから手当てをさせてほしい」

表情ひとつ変えずに軽症だと主張していた名前のことは今後一切信用しないことにしよう、なんて考えながらぎゅうと血管を圧迫する。自分でやるよりも的確に止血できることを名前もわかっているのだろう。これ以上はなにも言ってはこなかった。

「止血できていないなら医務室で休んでいればいいのに。なぜ庭に?」
「…鳥が、」
「鳥?」
「窓にぶつかった鳥が気になって…」

そう言って視線をそらした名前。その先には不自然に盛り上がった土がある。…まさか、自分のことを顧みずに鳥を埋葬してやっていたというのか?ぎゅう、と怪我をしていない方の手を握って少し震えている名前の瞳には哀が浮かんでいた。

「君は優しいね」
「…今まで自然は彼らのものでした」
「うん、君は優しいよ」

処置を終えた腕にそっと手を添える。そしてそのまま、彼女のあまりにも小さい手を握った。ぴくりと小さい反応を指が拾えば、それが愛しくて仕方ない。困惑したように「ゼノ?」と僕の名前を呼ぶ声が可愛らしい。
そして、それだけ腕の傷が痛々しくて仕方ない。特殊部隊所属とはいえ、入隊時は化学科に所属していたと聞いている彼女は実践はあまりこなしていないはずだ。所々に勲章が刻まれていたのは知っていたが今回の傷はそれらとはわけが違う。もうこんなことは止めてほしい、君が傷つくところなんてもう見たくはない。

「単刀直入に言う。僕のことを守って怪我をするのは今後一切やめてほしいんだ」

少し目を見開いてピタリと名前の動きが止まる。今まで見たことがない彼女の無表情に内心では不安が募っていた。暫く口を閉ざしたあと彼女がようやく、それは、と口を開く。

「私では力不足ということでしょうか」

手のひらを握る力を強くする。違うよ、と優しく否定をすると彼女の困惑が表情に浮かんで瞳を揺らすと唇を震わせる。たくさんの疑問を口にしたいけれどなにから言えばいいのかわからない、といったところか。

「君はとても強いし頼りにしているよ」
「ならどうして…」
「まず、愛している女性に怪我をさせたくないんだ。次に僕だって男のプライドがある。君の細腕に守られっぱなしは情けなくて仕方ない。つまりは全部僕の我が儘だ」

名前の疑問にすべて答えられただろうか?そう彼女の顔を覗きこむと頬に熱を走らせて赤く染め、ぱくぱくと口を上下させて目をぐるぐるとあちらこちらしどろもどろに動かしていた。おお、君もこんな表情をするんだね、ずいぶん可愛らしくて困ってしまう。

「し、しかし!」
「うん、なんだい?」
「私には腕力しかないので…」
「そ、そんなことはないだろう。仕事は早くて丁寧、報告も的確だ。それに君が微笑んでくれているととても幸せだし…そう、隣にいてくれればそれで」

素直に考えていることを伝えてみると、ようやく名前が僕の手を握り返してきた。ふにりと柔らかい彼女の手は僕の胸を高鳴らせるには十分すぎる威力を持つ。それに加えて返事に困っているのか何度も唇を開いては閉じる名前に思考まで連れていかれてしまいそうだ。
悩み込んで考え込んで、ようやく名前のかすかな答えがぼそりと吐き出された。こんなにもハッキリ物を言わない名前は初めてで新鮮で仕方ない。

「あなたを守れなくても隣にいていいのですか…?」
「むしろ隣にいて欲しいんだが…ダメかな」
「いえ…」

こんなにも幸せでいいのでしょうか。そう呟いた名前の肩を思わず寄せて抱き締めた。「僕だって幸せなんだ」と髪を撫でながら伝えると、ぐり、と肩に名前が顔を押し付けた。なんて愛らしいのだろうか。
ようやく僕の悩みが解決し、名前との新しい関係が始まるのだと思うと安堵と共に何物にも代え難い幸福が沸き上がる。僕の腕にすっぽり収まる名前はこうしていれば本当に普通の女性だ。

「私はあまり頭が良くはないのですががんばりますので」
「うん、がんばり屋なのは知っているよ」
「なので、これからも一番近くでお手伝いさせてくださいね」

またにっこり目を細めて笑う名前。当たり前だ、もう離してやるつもりなんてないよ。そう伝える前に「ただ、」と名前が口を開いた。その一言に嫌な予感がしたのは僕だけじゃないはずだ。

「問題がひとつありまして…」
「ンンッ、これ以上なにがあるって言うんだい」
「実はあなたを守ろうと体が勝手に動くといいますか…やはり隣にいるなら私がボディーガードも務めたほうが合理的では?」
「その場合、僕の小さなプライドはどうなるんだい」
「捨ててください」
「名前、君は少し人の気持ちを慮る練習をしようか…」

やっぱりね!君はいつだって僕のナイトで困ってしまうよ!

「言っておくよ、君のその愛情表現はまったく僕には伝わらないからね」
「そ、そんな…」
「それどころかそれでどれだけ悩んだと思ってるんだい」

ぐう、と鳴いて黙ってしまった名前はなにか反論しようと考えているようだったがそんなものさせるはずがない。とにかく、と話題を締めるために声を上げると名前は諦めたようにもう一度「うう…」と鳴いた。

「これからは対等でいたい。わかったね」
「はい…」

少しずつでいいからねと一応フォローを入れたが思い切り悩み込んでしまった名前には届いただろうか?また明日も反射的に何かしら格好よく助けられてしまいそうだ。
もうそれすら僕ららしいと僕が折れるのが先か、彼女の反射神経が折れるのが先か。そのエンドロールは誰も知らない。

公開日:2020年12月31日