彼女の籠絡はわかりやすい 中編

ぼーっと数分シャワーを浴びてバスルームから出た私はキッチンからちらりとゼノ先生を見る。視界にうつる先生はあまりに真剣な瞳でソファーに腰かけて私の論文を読んでくれていた。片手にはメモ、きっと指摘がずらりと並んでいるのだろう。
ふふっと唇から思わず漏れた笑声に、私もどうしようもないなと目尻を下げる。そうだ、コーヒーを淹れようとコーヒー豆を挽きお湯を沸かす。ゼノ先生はスティックシュガーひとつ、ミルクはなし。私はミルクたっぷりのカフェオレ。

「ゼノ先生、コーヒーはいかが?」
「ああ、いただこう」

ありがとうと言ってちらりと私の顔を見るがすぐに視線は論文へ。まったく、本当に色気がない人だと唇を尖らせつつも私も明日のスケジュール確認がまだ終わっていない。メーラーともう一度にらめっこをしてようやく目当てのメールを見つけた頃にはゼノ先生が論文を読み終えていた。
さて、受けてたとうじゃないか。今回の私の論文について、いくつ指摘があるのか聞かせて先生。

「指摘は数ヶ所あるが、素晴らしい論文だったよ。明日の発表を見られないのが残念だ」
「…えっ、それで?指摘は?」
「明日に影響しそうなんでね。発表が終わった頃にメールするよ」

楽しみにしておいてくれとメモをたたんで机に置く。コーヒーに口をつけて美味しいと微笑むと、また私の論文を眺めはじめてしまう。この人にそんな気遣いができたなんて、と軽く感動を覚えてしまう反面、少し複雑な気持ちにもなる。…女性の部屋で夜に二人きり、しかも二人はシャワーを浴び終わっているというのによく論文を読めるものだ。なんだか不安になってきたな、ゼノ先生の言葉を真に受けて先走っていたとしたらどうしよう。

「こんなにも素晴らしい科学者と働けることを誇りに思うよ」

論文をぺらりと捲りながら私を見ずにそう呟く。いつもの科学に触れているときの彼だ。…科学を優先するときによく見る彼の表情だ。

「せ、先生は…どうして私を傍に置いてくれるんですか」

そんな彼にどうしても不安が勝ってしまって少しうつむきがちにそう問うとゼノ先生が「可笑しなことを言う」と私の疑問が不思議でならないように首を傾げた。

「君は真面目だし発想も柔軟で魅力的な論文を書く。それに加えて仕事は丁寧で君がまとめた資料ひとつあれば会議では苦労しないし淹れてくれるコーヒーも美味しいよ。…他にも理由が欲しいかい?」
「…だから私が欲しいって?」
「君はもう僕のものだろう」

その一言に目を見開いてしまう。そう、そうか、もう私はゼノ先生の助手として働くことが決まっている。科学者としての私を彼は既に手に入れている。決して間違っていない。
しかし、唇からはかすかに「そう」とそっけない相槌しかひねり出すことができなかった。その様子に気づいた先生が論文から目を離してぱちりと私の顔を見る。…最悪だ。

「なにを浮かない顔をしているんだい?君は僕の科学者だ。かなり口利きをしてね…ああ、君の才能を各方面が欲しがったのさ!だけれどやっぱり僕の助手になってもらいたくって、かなり我が儘を通させてもらったよ。」
「…そう、」

ああ、思い知らされてしまった。私は私が都合の良いようにあの言葉を解釈していただけだ。彼は、ゼノ先生は、科学者である私を愛しているだけで普通の女性である私のことはまるで眼中にない。
幸せじゃないか、あのDr.ゼノに科学者として寵愛されているのだ。科学者ならば彼の隣に並べることがどれだけ幸福なことか理解できるだろう。そもそも私も、彼と仕事がしたくって日々を研究に費やして知識を身につけてきたんじゃないか。…舞い上がって馬鹿みたいだ。

自分の思考と反するようにポロッと流れた涙を慌てて拭ったがその動作をどうしても隠しきれない。それに涙が止まらなくて、徐々に声が漏れて抑えが効かない。呆然と私を見つめる彼の姿と表情が歪んだ視界に飛び込んできて頭が重い。
泣き止まなきゃ、先生が困ってる。なんていい子が染み付いた考えで涙を圧し殺して息をゆっくり吸う。しかし落ち着けば落ち着くほど、彼に投げたくもない言葉を回り始めた口が吐きつけるのだ。

「…先生は、自分の手足が欲しかっただけなのね」

涙をぐいっと拭って奥歯を噛み締める。駄目だ、先生の顔なんて見られない。ぼんやりする頭にじわりと痛む瞳が余計に私を惨めにさせた。
しかし、その言葉を聞いた先生がソファーから立ち上がり私の両肩をゼノ先生の手が掴む。その手が優しくてまた泣いてしまいそうだった。

「それは違う!」

慌てた様子で、しかしハッキリと主張をするゼノ先生。その声に思わず顔を上げるとぱちりと目が合ってしまった。その瞳があまりに真剣で余計に涙が視界を遮る。
先生が大きく息を吸って吐く間、ずっと瞳を見つめられてしまって心臓がうるさい。その心音が聞こえてしまっているのか、私の気持ちを汲むように優しく包み込むようなハグをして誤解を説こうと必死に口を開いた。

「すまない、君を傷つけるつもりはなかったんだ。もちろん僕は科学者としての君をいつも正当に評価しているつもりだよ。だから傍にいるよう口利きをしたし、僕のものにしてしまいたかった。…そして、それが叶って少し浮かれていたのかもしれない。君の気持ちに気づいていながら、君の能力しか欲していないような…酷い言葉を言ってしまった。」
「…先生は言い訳も長いのね」

つい意地悪く返事をしてしまって可愛げがない。しかし、彼の体温に安心していることと背中に回る手が少し震えていることに気づいて、ようやく減らず口が叩けるようになった。いつもなら「せっかく人が説明をしているのに」と叱責を受けかねない返事だが、今回ばかりは少し違う。
「じゃあ、単刀直入に伝えることにしよう」と体がゆっくり離れていく。そして再び瞳を合わせると優しく微笑んで、ようやく欲しかった言葉をくれた。

「僕は一人の女性として君を見ているよ。」

そう告げたゼノ先生の耳が赤い。その光景に、ようやくたどり着いた関係に、思わずこちらまで頬が熱くなる。今思えばずいぶんと大胆なことをしてくれたものだ、いや、泣いてしまった私も悪いのだけれど…。

「…じゃあ、」

からかうつもりも、意地悪く返事をするつもりもない。ただ、その言葉が本当なのか確かめてみたくって。

「ここでキスして、先生」

なんと大胆なことを言ってしまったのか。まだ彼からの愛情を欲しがるなんて強欲だ。しかし少しばかりひねくれた私たちだ、今を逃したら次はいつこんなチャンスが巡ってくるのかわからない。

「…君がかまわないなら。」

ゼノ先生からの返事にぱちぱちと瞼を上下させてしまう。断られるか疑問を投げ掛けてくるかのどちらかかと想定していたのに、彼から出た言葉はあまりにも気弱な、私への配慮だった。
こくこく、と頷くとゼノ先生はいいんだね?と念を押しながら髪をさらりと撫でつつ頭を固定する。そして一瞬だけ目を合わせてすぐにそれを閉じ、ゆっくり先生の顔が近づいてくる。その時間が堪らなく愛しくって「せんせい、」と声が漏れてしまった。

しかし、唇が触れあう寸前に先生の動きがピタリと止まる。そして「やっぱり少しだけ待ってくれ!」と情けない声を上げた。

「………先生」
「すまない!キスができないわけじゃないんだ!ただ、僕からもひとつだけ君にお願いをしてもいいかな?」

じと…と彼を見る私にもう一度謝罪を口にする先生。こんなに慌てた彼を見るのは初めてなものだから新鮮と言えば新鮮だが…今は少し煩わしい。
しかしここで意地を張っても仕方がないので「どうぞ」と彼に発言を許可する。いくらでも聞きましょう、あなたが私にキスできない理由。

「その…先生、というのはやめてくれないか」
「…へっ?」
「ようやく君を一人の女性として扱えるようになったのに、こう、先生先生と呼ばれてしまっては…」

いけないことをしているみたいで、と気まずそうにしどろもどろ私に頼み事をする。あまりにも意外、というよりかは想定外の理由に数秒ぽかんと呆けてしまったが、彼からのお願いを飲み込んだ。

「なんて呼べばいいの?」
「ただ、ゼノ、と。」

私は大学院から卒業したくせに、彼の教え子からは卒業できていなかったらしい。確かに学生でもなんでもない身分、なんならゼノ先生はもう科学者として対等の存在だ。私がそこに尊敬や憧れを混ぜこんで親愛をこめて「先生」と呼んでいただけ。
いきなり卒業を言い渡されても困る、と動揺してしまうがそれじゃあ私たちの関係はきっと変わらない。意を決して息を吸い、彼の瞳をちらりと見ながら初めて彼の名前を呼んだ。

「…ぜ、ゼノ、」
「…もう一度」
「ゼノ…」

名前を呼んだだけなのに彼はぱちくりと目を見開いたあとに心底嬉しそうに笑って「いい子だね」と呟く。…私に先生と呼ばれたくないのなら、その子ども扱いもやめて欲しいものだ。気恥ずかしくて仕方ない。

「ああ、想定外だ。君に名前を呼ばれることが、こんなにも喜ばしいだなんて」
「お、大げさよ」
「いや、大げさなんかじゃないね。僕はこれでも一途でかれこれ数年は君のことを見ていたからね。君に先生と呼ばれることがどれだけ幸福で、どれだけもどかしかったか…」
「ストップ、わかった、わかったから!」

つらつらと私への好意を口にする彼にこちらの心臓がもたない。呼び方ひとつで本当に大げさな…いや、これは私が判断することではないか。現にゼノ先生はとても嬉しそうに私の手を握っているのだ、否定できることではない。
そんなゼノ先生がずいぶんと遠回りをしてしまったと呟いて優しい瞳で私の瞳を見つめる。そんな瞳にドキリと胸が鳴ったころ、ゼノ先生が手の甲に唇を落とした。

「僕は君を愛しているよ」

なんて微笑みながらあまりに率直な愛の言葉を告げる。再び頭を支えられ顎に彼の指が触れる。くいっと私の顔を上げた彼が「目を閉じてくれ」と指示。少し戸惑ってしまって数秒瞳を揺らしたあと、ぎゅう、と目を閉じた。そこから数秒、唇を彼の指でなぞられたあとに触れるだけのキスが落ちる。
すぐそれは離れてしまったが、目を開ける隙もなく再び唇が重なり角度を変えてもう一度吸い付かれれば自然に開いた唇に舌先が侵入する。
それに驚いてしまってゼノ先生の肩を押すけれどびくりともしない。思わず一瞬唇が離れた隙に「せんせ、」と中止を促してみたが彼のキスは終わらない。ぐるぐると思考を奪われ、絶え絶えに息を吸って、はぁ、と吐き出す前に「ゼノ」と名前を呼ぶとようやく先生が唇を解放してくれた。

「さっき先生と呼んだだろう」
「仕方ないでしょ、まだ慣れないんだから」
「早く慣れてくれ。ああ、ついでに仕事中のやけに丁寧な言葉遣いもやめてもらおう。」
「…メリハリがつかなくて困るのだけれど」
「おお、名前、君はそれくらいじゃ腑抜けたりはしないさ。」

僕が育てた科学者なのだから、と胸を張って主張する彼に呆れ返ってしまう。これでもプライベートと仕事はきちんと区別をつけていたというのに、なんて人だ。

「まぁ、恋愛くらいで科学者気質やめられるならとっくに辞めてるわね…」
「だろう?」

私の体に腕を回して抱き締めながらそんな話をする。ああ、もう、こんな時までそんな話?と先ほどまで唇を重ねていたとは思えない会話にむう、と唇を尖らせてしまう。

「ねぇ、ゼノ。」
「なんだい?」
「ベッドに行きましょうか」

こうなれば当初の目的通り強制的に甘い雰囲気を作り出すしかない。先生と呼ばれたくないなら、ベッドで私をなかせてみせてと挑発すると部屋に誘ったときよりも目をまんまるにして驚いている先生。私だってね、もう大人なんですからねと突きつけてしまえば、きっとゼノ先生だってー…

「いいや、僕は今日紳士でいると決めているからソファーで眠るよ」
「あ、あなたねぇ!」
「やけに積極的だと思ったらそういうことだったのか、納得したよ。しかし今日はきちんと君に愛を伝えたし十分だろう。そして自分の体はもっと大切にするべきだ。」

ぐうの音も出やしない!確かに今日の目的は達成してしまったし、満足している自分もいる。が、ここまで彼が堅物だとは思わなかった!これでもかなり、かなーり勇気を出した発言だったのだ。慣れてもいない、というより初めての夜のお誘いがこんな形で泡になるなんて!次の言葉が出せない私に対してゼノ先生はまた優しく微笑むのだ。くう、勝てない!

「そういうことは徐々に、ね。ほら明日も予定があるのだからもう寝なさい。」
「そうやって子ども扱いして…」
「違うよ、明日の発表に影響が出ると言っているんだ。」

そう言われてしまっては、もう、返す言葉などない。子どものようにぐずる私の髪を撫でて額にキスをする先生は余裕の表情だ。ソファーに寝転ぼうとする彼の手首を掴んで「待って!」と制止をかける。往生際が悪くて情けない。

「い、一緒に、寝たい…」
「…それが一番難しいんだが…」

ため息混じりに「わかったよ」と言って私の腰を抱く。ベッドルームまでエスコートしようと微笑む彼に体を預けて、当初の目的とは大分かけ離れた理由でベッドに連れ込むことに成功した。ううん、成功、したのかしら…?

ベッドルームに入って電気もつけずにベッドに私を座らせる先生。そして自分もベッドに座り「ふう」とため息をついた。

「ベッドルームでため息なんて。」
「ため息くらいつかせてくれ!こんな子に育てた覚えがまったくないのだから仕方ないだろう!」
「あなたの教え子は卒業したもの!」

ゼノ先生の手を握ると観念したように唇を重ねてじわりと私をベッドに沈める。そしてすぐに唇を離して真横に寝転ぶゼノ先生。改めて冷静になると、私のベッドにゼノ先生がいるのだ。自分で連れ込んでおきながら実感がまったくない。そう、まさに、夢のようだ。

「ほら、眠るまで傍にいるからおやすみ、名前」

頬を優しく撫でられ、んう、と声を漏らしつつベッドに体重を預ける。ゼノ先生の胸にすり寄り「ふふっ」と思わず笑うと彼からも甘い声が聞こえてきた。

「ねぇ、ゼノ」
「なんだい?」
「私もあなたを愛しているわ。」

そういえば伝えていなかった、と愛の言葉を口にするとゼノ先生の両腕が私の体を包み込んだ。ぎゅう、と抱き締められ少し胸が苦しくなるが幸せすぎてそうなるならば仕方がないことだろう。

「ああ、愛しい人。今日はもうおやすみ。」

そう告げてまた抱き締める力を強める先生。その体温が愛しくてあたたかくってうと、と瞼がのまれてしまう。むにゃりと頬が緩んで瞼を閉じれば、あとは彼の体温のみが残る。そして緩やかに意識を手放せば、きっといつもより明るい朝がやってくるのだ。

公開日:2020年9月26日