彼女の籠絡はわかりやすい 前編

リクエスト内容:「科学者の籠絡はまわりくどい」の続き。
初めて彼女の家に足を踏み入れたゼノ。
なにもなかったけど最後は二人でベッドで朝を迎えてほしい。


「ゼノ先生、今日はうちに泊まっていきませんか」

私は今、自分の家の前で憧れの人へ一世一代のアプローチを果たしている。
相変わらずゼノ先生の助手として毎日を研究に投じている私と、そんな私を優しく導いているゼノ先生のいつも通りの帰り道。今日も変わらず深い時間まで仕事をしていた私たちはようやく帰路についたわけだ。
そして、何故私がこんな大胆な提案を彼にしているかというと…。

「今の時間だと帰る手段のタクシーも中々捕まらないし、うちに泊まれば一時間長く睡眠時間を確保できる上に朝もゆっくりできるわよ」

この目の前の、目をまんまるに見開いて驚いた顔で私を見つめている科学者がいつまで経っても手を出してこないからである!

わかる、いやわかっているつもりだった。年齢を重ねているとは言えまだ学生の私。彼は立派な社会人で、私が相手にされないのは至極当然のことである。しかし私は無事に卒論を書き上げ博士号を獲得し、なんなら先日卒業式を済ませたところだ。就職先はなんとNASAの研究職、しかもあのDr.ゼノの助手として働くことが決まっていた。ここはゼノ先生が口利きしてくれたようで私の実力ではないので複雑ではあるんだけれど…。
それはさておき、もう卒業を迎えて私は学生ではない。なんなら社会人になる直前の休暇を返上し既にゼノ先生の下で働いているのだ。勤務地近くへの引っ越し作業も平行しながら、彼の傍で日々を費やしている。これは楽しいので文句はないとして。

先述通り、ゼノ先生がいつまで経っても手を出してこないのである!
「博士号をとるまで僕は待つ」と徹夜明けのあの日確かに彼が言ったのだ。だから私はどれだけ睡眠時間を削ろうとも最短で卒業してやると息巻いて卒業論文を書き上げ発表し正々堂々、学生から脱却したというのに。
博士号をとったのに、いつまでも待ち続ける彼に完全にしびれを切らしたのである。そして今正にいつまで私を待たせるつもりだ!と突きつけてやっているのだ。

「だ、ダメ…?」

かなりずるい手段なのはわかっていた。年下の、自分にとって大事な教え子がこんな提案をしているのだ。しかも今は深い時間、なにが起きても受け入れる、同意とみなす発言であることは重々承知である。と、いうよりかはなにもないほうがこの場合は大問題なのだが…。

「…じゃあ、お邪魔するよ。」

少し戸惑ったようなその返事に小さくバレないようにガッツポーズする私の、なんと必死なことか。でももう精神的に後がないのだ、そこはどうかわかっていて、先生。

ガチャリと鍵をあけてどうぞ、とゼノ先生に部屋に入るよう促す。玄関からリビング、浴室まで完璧に掃除しきった部屋にゼノ先生が足を踏み入れようとしている。よしよし、計画は順調だ。もうあとはシャワーを浴びてベッドに連れ込んでしまえばいいのだ。先ほどのゼノ先生に泊まることを提案した勇気に比べれば易いだろう。…いや、もうこの状況は彼からベッドに連れ込んでほしいものだが。
そんな計画を頭で張り巡らせながらゼノ先生をリビングに案内する。院生にありがちの本が並んだ部屋だが、彼にとってはそれが当たり前でむしろ合理的だと判断されるだろうからそれは問題ではない。

「シンプルな部屋だね」
「まぁ、論文さえ書ければ良かったから必要最低限の荷物しか持ってきてなくて。」
「引っ越しやすくていいじゃないか。本の移動が少し大変だけれどね。」

そう部屋にある本を眺めながら呟くゼノ先生の荷物とジャケットを預かる。それらをクローゼットにし舞い込み、代わりにお客さん用のタオル類を取り出す。

「本はほとんど処分するつもりなの。」
「本は君の知識を支えるパートナーだ。持っていたほうがいい。」
「Dr.ゼノ、最近は電子書籍でなにもかも揃うのよ。」

そう言ってタブレットを見せるがゼノ先生はそれを見ても頷かない。むしろ本を一冊取り出して私にほら、と手渡してくる。

「君の付箋や書き込み、使い込んだ跡はそんなものじゃあ再現できないよ。」

その本は私が初めてカンファレンスで私の論文が入賞したときに利用した書籍だ。付箋だらけで分厚くなってしまって不恰好。しかも重くて、ペンの跡で真っ黒なそれを久々に見てじわりと胸の奥が熱くなる。ああ、私はゼノ先生のこういう優しさが好きでたまらないのだ。

「よく覚えてたわね。」
「よく調べられた良い論文だったからね。あの論文は何度も読み返したし、その本だって読んだよ」

僕が読んだ本はもっと薄くて綺麗だ。そう言って私の努力を認める彼に胸が高鳴る。いつだってそうだ、先生は私を見ていてくれる。それがどれだけ私の支えになっているか、あなたは知らないだろうけど。

「本の話はあとにしましょう、先生は明日も仕事なんだから。」
「君は明日いないのか?」
「言ったじゃない、出身校の生徒へ向けて論文発表を行うのでお暇をいただきますって。」

聞いてなかったわね?と少しだけむくれ顔で彼のことを咎めると苦笑いで「すまない」と私の頬を撫でる。まったく、いつまでも子ども扱いするんだから。

「謝罪はいいからシャワーを浴びてきて。睡眠時間が減るわよ。」
「ああ、お借りしよう」

そう言って普段からつけているチョーカーを外す。そしてネクタイに手をかけてしゅるりと首元を緩めた。初めて見る、彼の少し緩んだ服装にドキッと胸が跳ねた。いつもカッチリした服装ばかりを見ていたものだから新鮮というよりかは…。

「なにか?」
「い、いえ。ネクタイもハンガーにかけるから貸して」

少しばかり目に毒で、慌てて視線を取り繕ってネクタイを預かる。ハンガーにそれをかけながらぐるぐると脳を巡るのは普段は見ることができない素肌。彼がネクタイを緩めただけで動揺してしまうなんて、これからどうするの私!と自分を諭して頬を軽く叩く。
ゼノ先生をバスルームに案内し、帰宅してからようやく一人の時間が訪れた。本当は明日の論文発表の内容を再確認したかったが、正直それどころでは…。

「…いや、こんなときこそ研究か…」

自分で言ってて悲しくなるが、これが私なのである。パソコンをつけて論文の確認をし、補助資料と交互に見ては強調したい箇所に線を引いていく。ゼノ先生の下で働くようになってからはかなりハイレベルな発表を聞いてきた。そこで培った技術は私の中で確かに生きていて、明日の私に勇気をくれる。
もう補助資料は大学に送っているからあとは明日のスケジュール確認か、とプロフェッサーから送られてきたメールを探す。あれ、何日前に誰から送られてきたんだっけ?とメーラーとにらめっこしていると「大事なメールは別フォルダだと教えただろう。」と声が降ってきた。それなりに集中していた私は彼の気配に気づかずにびくりっと体を強張らせてしまう。び、びっくりした…。

「それは明日発表する資料かい?」
「ええ、そうだけれど…」

ぺら、と補助資料をめくって眉間に皺を寄せるゼノ先生。一頁目から既に指摘が?!と身構えていると、ゼノ先生から意外な言葉が飛び出た。

「この論文、僕は見せてもらってないな」
「そうだったかしら」
「見せてもらっても?」
「どうぞ」

正直、発表前日に指摘を山盛りされるのは好ましくないが仕方ない。ゼノ先生も論文を読みはじめてしまったし、私もシャワーを…って、これじゃいつもと変わらないじゃない!
思わず頭を抱えてため息を吐きそうになるがぐんっと飲み込む。まだ、まだ大丈夫。時間はあるから、と自分を言い聞かせて今日のために買った下着を手にバスルームに向かった。

公開日:2020年9月26日