ベルを鳴らして、パブロフの犬

「ここの設計間違ってんじゃねえか」

手元で繰り返していた作業を中断し、同じく作業の手を止めたブロディが指差す設計図を覗きこむと明らかに可笑しな設計がひとつ。このままだと上手くギアがハマらず起動した瞬間に爆発してしまうだろう。首を捻りながら何か意図があるのか思考をめぐらせてみるが心当たりもメリットも見当たらない。

「うーん、ゼノに確認取ったほうがいいかもね」
「納品は急かすくせに随分お粗末な設計図だぜ。俺は別作業があるから頼んだ」
「はいはい、Dr!仰せのままに。」

そう了解を伝えながら手袋を外すとこんな世界になる前から聞いていた特徴のある笑い声が響く。まぁ、こんな世界になってまでブロディの助手として日々を消費することになるなんて石になっている間は想像していなかったけれど。
しかしながら今回の指示は私にとってとても都合が良いものだった。なんたって作業時間にゼノに会えるのだ。しかもきっと今の時間は彼は一人で作業をしているはずだから久々に二人で話ができる。…と、いってもお仕事第一だけれど。
少しだけ上機嫌に設計図を手に取り、じゃあ行ってきますと口にすると「今日はもう戻ってこなくていいぞ」と盛大にからかわれてしまった。そんなに顔に出てしまっていたのだろうか、と心臓が少し跳ね上がるが「もう!」と短い叱責を吐いて作業場をあとにした。

少し重たい扉を開けて研究室に入るとじい、と火にかけられた薬品を眺めながら考え事をしているゼノが視界に入る。良かった、やっぱりここにいた。コツコツと靴を鳴らしながら彼に近寄ると「あまり近寄らないほうがいい。」と注意を促す彼の声。なにか危ない薬品でも取り扱っているのだろう、部屋の窓すべてがあいていて換気に必死だ。訪れるタイミングを間違えただろうかと椅子に腰掛けて彼の実験を眺めることにするが、ちらりともこちらを見ないので少しだけ自分の扱いに抗議をしたくなってしまった。
またあとで、と作業場に戻ってもいいのだが「戻ってこなくていい」と言われた手前、こんなにも早く作業場に顔を見せたら笑われてしまうだろう。いや、笑い飛ばしてくれるならそれでいい。万が一心配でもされてしまったら立ち直れなくなってしまう。つまり、私は研究室でゼノの作業が終わるのを待つしかないのだ。
さて、偶然とは言え時間ができてしまったので持参した設計図を眺めてため息。見れば見るほど複雑な設計図でブロディもよくこんな小さな設計図ミスに気づいたものだと感心してしまう。作業に夢中になるとどうも思考が止まってしまうのは悪い癖だなぁ。
うーん、と唸っていると薬品を片付けたであろうゼノが私の背後に立つ。ずい、と私が眺めている設計図を覗きこんでこの設計図が何なのか確認をすると「ああ」と短い声が上がった。…私より設計図が気になったのね、まったく。

「終わったよ、用件は?」
「お疲れ様。この設計図なんだけど…」

ここ、と設計図ミスの箇所を指差すと「おお、エレガントではないな」と呆れた言葉を口にする。ペラペラと自分の過ちを自白して設計図を正していくゼノの表情は少しだけ疲れているように見えた。

「この程度ならDr.ブロディでも修正できたんじゃないかな」
「前に勝手に設計図変えて拗ねたのどこの科学者だったかしら。」
「…返す言葉がないよ」

あの時はブロディとゼノの板挟みになり、どちらが正しいか!と問われて悩みに悩んでノイローゼになりかけた。それをゼノも覚えているものだからそれ以上の議論は無意味だと、自分が悪かったと大人しく認めたわけだ。あの状況にもう一度陥るのは勘弁願いたいのでこの素直さはありがたいし、そんな彼が愛しい。すり、と彼の手の甲を撫でると「危ないよ」と彼が手袋に手をかける。
彼が爪の長い手袋を外すということは恋人らしい時間が始まる合図だった。彼の手が、指が、頬や髪を優しく撫でたり手を重ねたり、顎を指で持ち上げられキスをしたり。先ほどまで蔑ろにされ続けたものだから彼との時間が恋しくて仕方がない。そわり、と彼が手袋を外すのを期待して待っているとそんな私を見てゼノが「うん?」と首を傾げた。

「どうかしたのかい?」
「へ…え、あの…手袋外さないの?」
「君が手に触れたから危ないと諭しただけだよ」

少し爪が鋭利だからねと付け足すゼノにしまった、と殴られたような衝撃を受ける。早とちりだった。かああ、と頬に熱が集まるのを感じて両手を頬に当ててしまう。は、恥ずかしい…!てっきり手袋を外して触れて貰えるとばかり思ってしまった、うう、なんて空回り。

「…ああ、触れてもらえると思ったのかい?」

そんな私に図星すぎる言葉を投げ、手袋を見せつけるようにずいっと目の前で手をぐーぱーと開いたり閉じたりしてみせる。カチンカチンと爪と爪が当たる音がして余計に先ほどの浅はかな思考に羞恥が募る。意地悪くニヤニヤ笑いながら「君がそんな反応をするとは」と私を責め立てるゼノにぐうの音も出ない。
手袋をしたままの人差し指、長い爪でくいっと私の顎を持ち上げてじい、と私の瞳を見るゼノ。一方私は居心地が悪くって目を反らしてしまう。ああ、頭がくらくらするし頬が熱い。胸が異様に高鳴って息が苦しい。

「君を傷つけないように手袋を外していたんだが…随分とはしたない子になってしまったね」

その言葉にまた頬に熱が集まる。まるで躾がなっていない犬みたいな反応をしてしまった事実がじわりじわりと私の精神を蝕んでいく。恥ずかしすぎて今すぐ消えてしまいたい。しかし、それを私を見つめ続けているゼノは許してはくれないだろう。

「僕に触れて欲しいんだろう?なら、どうすればいいかわかるね?」

顎を上げられたまま耳元で囁かれ、ゾクリと身震いをしてしまう。ああもう、性格が悪いなと頭では悪態をつくが私の顎を持ち上げていたゼノの手をとる。焦らされ続けて思考を彼に触れられたい欲に支配された私はゼノ、ゼノ…と彼の名前を呼びながら彼の手袋に手をかけた。さもしく彼の手袋をするり、と外して机にそれを置いて待ち望んでいた彼の指に自分の指を絡める。彼の手の甲をすり、と自分の頬に寄せるとゼノがニヤリと口の端を上げたのが見えた。

「ゼノ、お願い」

そう瞳を見て嘆願すると「随分とおねだりが上手じゃないか」と呟いてまだ外していないもう片方の手袋の指先を噛み、それを外す。こんな状況でも私が傷つかないように冷静な彼にどきんと胸が鳴ってしまう。…ああ、これは駄目だな。完璧に飼い慣らされてしまっている。
再び親指で顎を上げられ、ようやく唇が落ちてくることに安堵し目を瞑る。そうしたら私の唇ではなく喉元にちゅっと唇を落としたゼノ。想定外の出来事にびくりっと体が反応するが、お構い無しで次は首筋に噛み付く。

「ゼノ、ちょ、ちょっと待って」
「うん?どうして?」

私の制止も聞かずに首筋にもう一度吸い付くとちゅう、とゼノの唇が音を立てる。こんな昼から、誰でも入室できる研究室でこれ以上は!と理性がストップをかけているが口にすることができない。なんならゼノの服をぎゅう、と掴んでしがみついてしまっている私にはなんの説得力もない。唇が首筋を離れ、優しく微笑んだゼノが私の髪を、頭を撫で「かわいい人」と囁く。
…ああ、唇にそれが欲しい、と言ってしまえばまた「はしたない」と言われてしまうだろうか?彼の唇が触れた喉元と首筋がじれったくて仕方がない。駄目だとわかっているのに、もっと触れて欲しい。こんなところ人に見られたらきっと恥ずかしさで死んでしまうというのに。

「それにしても、条件反射とは言えこんなことになるとは」

自分の手を見てなにかをぼやくゼノ。条件反射?ああ、手袋を外せば恋人らしい行為が始まると思い込んでいたことを指しているのか。…待って。

「…わざと?」
「さあ、どうだろうね。」

しまった、これは完全にやられた。これまでわざわざ私に見せつけるように手袋を外していた彼の姿を思い出してしまってそういうことか、と脳の奥がじわりと痛い。わかりやすく頭を抱えてしまった私にゼノはクスリと笑って、先ほど吸い付いたはずの喉元に再び唇を落とした。

「君はなにも知らなくていい。」

額に唇を落とされ、思考をすべて奪われる。ずるい人、そうやってこれからも私を縛って生きていくのね。そこまでして私が欲しいと言われなくてもきっと私は首をあなたの都合が良いように振ったというのに。
ゼノは私が触れて欲しいと言った通りに頬を撫で、片手は緩く絡ませてくれる。すり、と下腹部に触れた彼の瞳があまりに真剣で無意識のうちに躾られていたことすべてがどうでも良くなってしまった。

「待って、本当に人が来ちゃう…」
「名前のかわいい姿を人目に晒すわけにはいかないな」

ぱっと私の体から手を離したゼノは優しく微笑み、愛情を含ませた瞳で子どもに言い聞かせるように言葉を投げ掛けた。もちろん、私の頭を撫でながら。

「夜まで待てできるね?」

その瞳に嘘なんてつけない。こくり、と頷くと「いい子だ」と微笑んで手袋をはめてしまったゼノ。まるでなにもなかったかのように作業に戻ってしまった彼に、いまだにくらくらしている頭が劣情を抱く。ダメだ、夜まで待てると頷いたのだから。そう強く自分に言い聞かせて首を振る。…ああ、先ほど吸い付かれた喉元が脈打って仕方がない。
はあ、とため息とは別の、熱い息を吐き出すとガラスに薬品を注いでいたゼノがこちらをちらりと見て、口角を上げてこう言った。

「僕のかわいいパブロフの犬」

公開日:2020年8月23日