科学者の籠絡はまわりくどい

「まず、この仮定からこの結論を出すのは些か強引すぎるね。圧倒的にエビデンスに基づくデータが足りていない。」

しーんとした会議室と、壇上に立つ私。スクリーンには私がそれこそ寝ずに書き上げた論文を要約したスライド、そして私の論文発表を真剣に聞いていた各プロフェッサーの机上には補助資料の山。論文発表自体は成功し、プロフェッサーたちは「素晴らしい」と評価までしてくれている。
しかし、それを薄ら笑いで全否定しようと立ち上がり口を開いた、この大学院には無関係の男。そう、彼はあのNASAの科学者であり、知り合った当初から私のことをなにかと気にかけている私の人生において異彩を放つ存在。
私のスライドを一枚一枚指摘していく勢いで口早にペラペラ正論を突きつけてくる彼と、自分にはない研究の切り口や手法、発想に見事現在進行形で完膚なきまで叩きのめされている私。プロフェッサーたちがざわめき始める中、キリリと痛むのはちっぽけなプライドか、空っぽの胃か。
私のやり方が間違っているとは決して口にしないが、最適なやり口が他にあったこと、その発想に至らない未熟さに悔し涙が視界を覆う。しかし、泣いてしまっては完全に敗北してしまう!と涙が流れる寸前、まばたきひとつもせずに、せめて姿勢だけは崩さずに論文の欠乏を訴える彼をまっすぐ見据える。
Dr.ゼノ、どうしてあなたがここに?という疑問を盛大に喉を鳴らし飲み込みながら、私は彼の糾弾を受けている。

「以上が総評かな。学生にしてはハイレベルだったよ、これからも精進してほしいな。ああ、僕の指摘はあとでメールで送るから参考にしてくれ。」

ようやく終わった二十分の彼の独壇場に涙も乾いた頃、残ったのは胃痛のみ。しかし彼の発言は恐ろしいことに全て正論だったので胃痛のことも口にできない。何はともあれゼノ先生の発言は終わったのだ。お疲れ様、私。

「あ、もうひとつ。これは質問なんだけれど」
「Dr.ゼノ。」
「なんだい?」
「質問の前に胃薬を飲む時間を頂いてもよろしいかしら…」

かまわないよ、と勝ち誇ったゼノ先生の表情を私は一生忘れてなどやらないだろう。

人で賑わうカフェの注文カウンターにてメニューとにらめっこしている私に「ゆっくり決めるといい」なんて言葉をかけて自分は余裕に「アイスコーヒーとターキーが入ったサンドイッチを」と注文をするゼノ先生。
論文発表会が終わったあと、解放された私にぴこんと「良かったらランチでも」とメッセージを送ってきた彼に連れられてやってきたカフェ。雰囲気も店員さんもオシャレで、ゼノ先生がこんな場所を知っていたなんて、と軽く裏切られた気持ちになってしまった。大学院の近くにこんなカフェがあったなんて私は知らなかったのに。

「アイスコーヒー?あなたが頼むなんて変なの」
「若者の間では流行っているんだろう?」
「Dr.ゼノ、歳がバレるわよ」
「僕が子供の頃はアイスコーヒーなんてメジャーじゃなかったからね」

軽口を叩きつつゼノ先生の顔を見ると先ほどと同一人物とは思えないほど私を見て優しく微笑んでいる。ああもう、いつも彼の本質を見失って振り回されてばかりで嫌になっちゃう。そんな彼の隣でメニューを睨みながら少しだけ悩んで、カプチーノとベーコンとチーズのサンドイッチを注文すると「君は本当にチーズが好きだな」と笑われてしまった。

「胃はもう平気なのかい?」
「おかげさまで。」
「それは良かった。どうせ朝食を抜いていたんだろう?」
「あなたに言われたくないわ。それに朝食を抜いていただけじゃあんな痛み方しません。」

そうキッパリ伝えると僕は間違った指摘をしたつもりはないよとまたもや正論。それを理解しているだけに、また自分の研究がいかに甘かったのかを叩きつけられて居心地が悪い。
注文を終えた私たちは飲食スペースに向かい、きょろきょろと空間を見渡す。ああ、良かったテーブル席が空いている。あそこ、と空席を指差すとゼノ先生が「OK」と口にして私の肩を抱き、その場所まで紳士的に誘導を。そして席に座ろうとするとゼノ先生が椅子をひき、どうぞと微笑む。…あなたにレディーファーストの精神があっただなんて知らなかったわ。

「ありがとう。」
「どういたしまして。」

ゼノ先生にエスコートされるままに席に座り、ふう、と一息つく。イレギュラーがあったものの無事ここ半年間の不眠の原因がようやく終わったのだ。これで数日はゆっくり眠れる。

「そうだ、論文を訂正したらぜひ僕にも転送してくれ」

思わず目を見開いてひきつった顔でゼノ先生を見てしまう。ウッワ、なんだそのワクワク顔は?!私の論文が楽しみだ、と言わんばかりに笑っている彼にくらりと頭痛。…まだゆっくり眠るには早いらしい。

「…ゼノ先生はなぜ大学院の論文発表会なんかに?お忙しいでしょうに。」
「…君が、僕のメールを無視するからだろう」

しまった、これはここ半年ゼノ先生からのメールを全て無視していたことを咎められている。
実は論文を書き始めた頃、実験の真っ最中に何通かゼノ先生から論文を手伝う旨が書かれたメールを貰っていたのだ。厳密に言うと返信はしていたのだが、研究内容は一切伝えずに一人で論文を書き上げた私に不満があったらしい。

「そのくせ論文が間に合わないなんてSNSに書き込んでいることを知れば僕だって意地になるさ!」

そう言ってむすりと不機嫌になってしまったゼノ先生に完全に私の自業自得を突きつけられた。つまり、彼は私の論文を手伝いたかったらしい。しかしそれを私に悉くかわされ、ならさぞかし素晴らしい論文を書き上げたんだろう、と大学院にまで乗り込み私の論文を評価したわけだ。うーん、これは困った。

「いつだって君の頼みなら手を貸したのに。」
「ゼノ先生」
「大体君は少し我が強すぎる。科学者になるならば周りに頼ることも覚えたほうが」
「Dr.ゼノ!」

くどくどと私の欠点を口にする目の前の科学者の言葉を遮る。突然大きな声を出した私に丸く目を開いて「反論があるならどうぞ」と好戦的に微笑んだ。

「まず、私は一人で論文を書き上げたかったのよ」
「なぜ?僕に頼ったほうが効率がいい。」
「私はあなたの影で居たくない。」

ずっと科学者を目指していた私にとって、Dr.ゼノの存在はあまりに大きい。そりゃあ、データが欲しいと言えば数日以内に望んだデータが確かなエビデンス付きで飛んでくるだろう。けれどそんなの私の研究ではない。ああ、これじゃ我が強いと言われて終わってしまうな。事実、かなり可愛げのないことを言っている自覚はある。
ただ、彼に甘えていては私は「少し賢い学生」から抜け出せないのだ。私は一刻も早く「科学者」にならなくてはならない。彼の、Dr.ゼノの隣で研究するために。

「…どうやら僕は君を見くびっていたらしい」

まいったな、と言ってため息をつく。ため息を吐き出したいのはこちらだっていうのに。実際に今回の論文は正直、自信があったのだ。それを二十分もかけて未熟さを叩きつけてきたあなたがため息など吐かないでほしい。

「でも、あなたに論文を見てもらえてよかった。現実を知ったわ。」

ありがとう、ゼノ先生と笑えばゼノ先生が撃沈してしまった。さて、今回の件大人げなかったのはどちらだったかは一目瞭然。今の彼に「今日の発表が終わったらあなたにも論文を見せるつもりだった」と追い討ちをかけたらどうなるのだろう。
黙ってなにか考え込んでしまった彼を眺めていると先ほど注文したサンドイッチとドリンクが運ばれてきた。ありがとう!と店員にお礼を良い、皿に盛られたサンドイッチを見る。カリカリに焼かれたパンからはベーコンが飛び出していて、その隙間をチーズがとろりと顔を覗かせている。うーん、おいしそう!
スマホを取り出しサンドイッチの写真をぱしゃりと納めると、ゼノ先生がクスリと笑う声が聞こえてきた。は、恥ずかしいところを見られてしまった。

「喜んでもらえたようでなによりだ。」
「…冷める前に食べましょう」

どこからいただこうか、と悩んでいるとゼノ先生がパソコンをテーブルに出す。うわ、こんなときに仕事かな?ゼノ先生忙しいもんなぁ…と思いつつサンドイッチにかぶりついた。私もこれを食べ終えたら論文の書き直しをしよう。目の前にあのDr.ゼノがいるのだ、聞きたい話が山ほどある。
ゼノ先生がカタカタッとキーをタイプする音と私が補助資料をめくる音のみが耳に届く。久々に会ったっていつもこうだ、結局「少し話をしよう」と連れ出されても会話などほぼない。しかしそれが居心地いいんだからどうしようもない。

「よし、完了だ」
「あらお仕事終わったの?じゃあ質問があるのだけれど」
「いや?仕事じゃないよ。君のインターンの申し込みが終わったんだ。」

うん?今なんて?

「パスウェイプログラムはもちろん知っているね?本当はRGPを勧めたかったんだが、君は現場で学んだほうが伸びると思うんだ。だから今、IEPに申し込んだよ。ああ、安心してほしい!僕の助手になるよう根回ししたからね。君の学歴と成績、先ほどの論文なら文句なしにインターン生として受け入れられるだろう。」
「Dr.ゼノ」
「なんだい?おっと君を受け入れる準備をしなくてはね。幸いにも僕のデスクの隣が空いていてね、荷物を片付ければすぐにでも君のデスクの出来上がりさ。パソコンは支給されるし実験もやり放題、しかも僕の監修付きだ。なんてエレガントだろう!今まで君をインターンに迎え入れる発想がなかったことを後悔しているよ!」
「Dr.ゼノ!私に拒否権は?!」

ないね!もう申し込みをしてしまった!とハッキリ口にするDr.ゼノに頭を抱えてしまった。嘘でしょう?パスウェイプログラムってNASAのインターン雇用制度よね?いや、確かに今までもたくさん彼に振り回されてきたけれどこんな、だって人生かかってくるんだけれど?!

「博士号を取るまでインターン生として僕の隣で学ぶのは嫌かい?」

そんな聞き方はずるいんじゃない?と言葉を吐こうにもぱくぱく、と口が動くだけで言葉が出ない。ゼノ先生の下で学ぶって、そりゃあ願ったり叶ったりだけれど、私は私で今後のカリキュラムを組んでいたしなによりも急すぎる!

「大学院に居たままじゃいつまで経っても君は僕の影から逃げられないよ。僕は君を少し甘やかしてしまうからね。」

つまり、インターン中は私を科学者として扱ってくれる、ってことね。ああ、もうなんて回りくどい。というよりなんと自分勝手な人。このインターンを受けたら私はきっと、今の比ではないくらいに彼に振り回されてしまう。胃痛も睡眠不足も悪化することがないといいのだけれど…。

「…いつから?まさか六月からだなんて言わないわよね?」
「そのまさかさ!悪いあと三日しかないね!」
「ああ…夏休みはカンファレンスで発表する研究論文を書く予定だったのに…」
「おっとそれは大変だ。安心してくれ、君が論文を書く時間は確保しよう」

めちゃくちゃだ。NASAの仕事をしながら自分の論文を書け、と。そしてきっと彼の「論文を書く時間」というのは睡眠時間だろう。つまり私がゆっくり眠れる日はまだまだ先ということ。
…まずい、ついていける気がしなくなってきた。
睡眠不足とあまりにも突拍子もない展開に頭を抱えていると「そんなに思い悩まなくていいよ」と呑気な声が聞こえてきた。あなたからすればそうでしょうね、と悪態をつく気にもなれない。

「君と働ける日を楽しみにしているよ」

そう言って微笑む彼の優しい瞳にたじろんでしまう。ああ、カリキュラムを組み直さなきゃ…と今はあまり頼りにならない頭を動かしていると、諦めろと言わんばかりに彼が飲んでいたアイスコーヒーの氷がからんと溶けた。

公開日:2020年8月15日