科学者はそれを奇跡と呼ばない

ハッピーホリデー!
そんな挨拶が飛び交うようになって早数週間、今日はいよいよクリスマス・イブ。街中は陽気に飾られて祝日を祝う。とても素敵な聖誕祭前日。ツリーの下にはたくさんのプレゼント、ディナーにはハムやチキンのご馳走が並び、子どもたちはジンジャークッキーやペパーミント味のキャンディケーンを頬張る。
そんな浮わついた雰囲気の中、私は緊急トラブルに追われていた。目の前で延々とエラーを吐くパソコン、今朝いきなりダウンしたサーバー、原因不明のシステムダウン。すべて重大なインシデントである。先に言い訳をしておくと私がやらかしたわけではない。そもそも、本来ならば私もホリデーに乗じて休暇を取得し家でゴロゴロする予定だった。そして本来ならばこの緊急対応も私の仕事ではない。

「家族引き合いに出されちゃあねぇ…」

そうぼやいた言葉は低音でうめくサーバーのHDDとファンの動作音にかき消されてしまった。私だって人の子だ、クリスマスには温かい記憶がある。子どもにとって最高のイベントに親がいないなんて最悪の思い出になること間違いなしだろう。と、いうわけで専門外であるにも関わらず私に白羽の矢が立ったわけだ。幸いなことに家族とは遠く離れて暮らしているし、恋人もいない。私が仕事に駆り出されたところで悲しむ人間などいなかった。

「早く終わらせて帰ろ…」

重い頭を軽くトントンッと指で小突きながら画面と向き合う。黒い画面に並んだエラー文を洗い出しては対処を繰り返すがどうやったってサーバーの機嫌は直ることはない。
誰一人として出社していない社内でうめき苦しむ私の声。きっと防犯カメラには私の様子がすべて映っていてあとでビデオを確認した人が私を憐れむんだわ、そうに決まってる。そんな被害妄想甚だしいことをぼんやり考えながら手は止めずに原因を究明するためにキーボードに奔走させる。

緊急対応から数十分、頭を抱えて完全に手を止めた私はタイムリミットについて計算を始めていた。サーバーを長時間止めてしまうと動いているシステムに少なからず影響が出る。幸いにも予備機が稼働していることは確認済みだけれど早く復旧をしないと上に叱られるのは明白だろう。
ふう、と重たいため息をひとつ。少し休憩、と脳を切り替えると通勤前に寄った店で購入したケーキが冷蔵庫に入っていることを思い出す。私自身の機嫌をどう取ればいいのかを完全に理解している行動に思わず口の端を上げる。私も大人になったものだ。

るん、と作業場から少し遠い自席の横にこっそり置いてある冷蔵庫を開けるとホールケーキがひとつ。愛しのチョコレートモカケーキに口元が緩んでしまう。せっかくのホリデーなのだ、少しくらい甘いものを食べても許されるはず。
椅子に座って箱を開けると甘い匂いが鼻腔を抜ける。すると先ほどから甘いものを欲していた体がはやく糖を脳にまわせと急かした。いつもなら切り分けて食べるものだが、誰も見ていないんだしと直接ケーキにフォークを入れる。ホリデーに出勤するような大人になってしまったけれど、贅沢もできるようになった。そんな小さな成長を喜びながらそれを口に含んだ瞬間だった。

「おお、ホリデーに人がいるとは」
「んぐっ…!」

後方から聞こえた声に驚いて喉がひっくり返る。ケーキをごくんっと飲み込んだはいいものの、喉に引っ掛かったスポンジが気持ち悪くってゲホゲホッと咳をしてしまう。

「急に声をかけてすまない。大丈夫かい?」
「んえ゛…ええ、大丈夫よ」

ようやく苦しさから解放された私は少し涙目ながらもそう答える。ホリデーに人がいるとは、なんてこちらのセリフだ。
Dr.ゼノ。このNASA…いや、世界トップクラスの科学者で、数回会話をした程度の知り合い以下。私なら見かけてもスルーする…そんな彼が、行儀悪くケーキを堪能している私に声をかけたのだ。正直恥ずかしい、見てみぬ振りをしてほしかった。

「Dr.ゼノはなぜここに?」
「僕にホリデーなど関係ないからね。それよりも君だ、今日出勤なんて。なにかあったのかい?」

ちらりとケーキを見て怪訝な顔をするDr.ゼノ。そりゃあそう、休日、しかもクリスマスイブに職場でケーキを頬張っている女がいるなんて想定外だろう。

「ちょっとね…トラブル対応というか…」
「ああ、今朝からサーバーがダウンしているがそれのことかな?」
「ご名答」
「それでヤケ食い、と」

ふっと唇を緩めて目を細めたゼノ。いっそ笑い飛ばして欲しかったが、あのDr.ゼノが大笑いするところなんて想像がつかないものだから少しばかり笑って貰えただけマシだと思うことにしよう。

「そうだ、ゼノも食べる?切り分けようか」
「おお、君から幸せを奪うつもりはなかったんだが…」

隣の椅子にどかりと座ったゼノに思わず「ふふっ」と笑声を漏らしながらちょっと待ってねと引き出しからコンパクトナイフと紙皿を取り出す。まさかDr.ゼノにケーキを切り分ける日がこようとは、と少しばかり不思議な状況に先ほどまでの憂鬱が嘘みたいに晴れた。出勤仲間がいることがこんなに安心するものだとは思わなかったなぁ。

「はい、どうぞ」

切り分けた六等分の1ピースを紙皿に乗せてプラスチックのフォークを添える。それをゼノの前に置くと「ありがとう」と声がした。改めて奇妙な状況だ、職種も専門分野もプロジェクトもまったく違う数回しか会話をしたことがない彼とこんな形で交友を深めることになろうとは。

「クリスマスにケーキ、か。日本のクリスマスみたいだね」
「日本?」
「ああ、僕らには馴染みがないが日本ではクリスマスにケーキを食べる文化があるらしい。」

生クリームを使ったデコレーションケーキが発売されるほどだ、とそんな魅力的な話を残してケーキを食む。へえ、と相槌と共に目の前のパソコンで馴染みのない文化について検索をかける。するとちょこんとサンタクロースが乗った可愛らしいケーキの画像が所狭しと画面に並んだ。

「素敵、きっとサンタは子どもの特権ね」

これはなにでできているのかしら、と検索ワードを打ち込もうとするとゼノがケーキを大袈裟に飲み込んで「それはね」と疑問に答える。楽しそうに私に知識を共有する彼の真っ黒な瞳には心なしか光が入っているようにみえた。気難しい人だと思っていたけれど案外会話をしてみればそんなことはないらしい。

「メレンゲドールといって、メレンゲと砂糖でできているんだ。メレンゲを泡立てて形を作り、低温のオーブンで焼くんだよ」
「ああ、低温にしないと砂糖が焦げちゃうものね」

卵白の起泡性を考えると砂糖はある程度泡立ててから混ぜてるのね、と世間話をしながらケーキを口に運ぶ。しまった、こんな話をしてたものだからメレンゲドールがどんな味なのか気になりはじめてしまった。きっと水分を失ったメレンゲは固いだろうし、味気もないのだろうけれどホリデーに食べるそれは特別に違いない。

「あなたって博識なのね」
「君だって僕が知らないことをたくさん知っているだろう?今回はたまたま僕が話題を提供しただけさ」

お、おお、意外に優しい一面もあるんだ。ゼノレベルの科学者なら私なんて馬鹿にされても仕方ないと思っていたのに。微笑みながら私の話も聞きたいと目を細める彼の優しい声に絆される。…なんだか彼に対して勘違いをしていたみたいで申し訳ないな。今度からゼノを見かけたら声をかけるようにしてみよう。

「そういえばゼノはなんの仕事をするために今日出勤したの?」
「忘れ物をしてね。取りに来るついでに論文をまとめてしまおうかと」
「…それ、今日じゃなくてもいいんじゃない?」

もちろん、明日仕事をするのももっての他よ。そう天才科学者様に苦言を呈しながらケーキを口に運ぶ。私なんてこれを食べ終えたら地獄が待っているというのに、休める人間が休まず仕事なんて見ていられない。ホリデーは休むものよ、私が言えることじゃないけどね。

「おお、確かに今日じゃなくてもいいね。もちろん明日も論文なんて書かなくていい。」
「でしょう?せっかくのホリデーなんだし食べ終えたら帰っちゃいなよ」
「…君はこれからトラブル対応だろう?」
「普段神を信じていないツケが回ってきただけよ」

あなたが気にすることじゃないわ、と強気に笑うとゼノの眉間に皺が寄る。そんな顔をされても困る、たまたま出くわしただけの彼をせっかくのホリデーに巻き込むのは忍びない。そんな私の気遣いを無視するかのようにゼノが口を重たそうに開いた。

「君こそ今日は早く帰らなくちゃいけないんじゃないのかい?」
「早く帰ったところで食べるお菓子が増えるだけ」
「恋人が待っているだろう?」

その一言にケーキを吹き出しそうになる。口内でなんとか留めたそれを飲み込んで「何を言い出すかと思えば!」と彼の言葉を笑い飛ばす。ケラケラと笑う私を不思議そうに眺めるゼノの、少し間抜けな顔が余計に笑いを誘った。

「残念、私には待っててくれる恋人なんていないわ。早く帰ってもひとりなの」

だから大丈夫、ということが言いたかったのだけれど、私の言葉にゼノが大きく目を見開いた。そして信じられない、と言わんばかりに少しだけ唇を震わせる。その表情に嫌な予感が走った。まさに彼は、パートナーがいない私を哀れむ人間たちと同じ表情をしていた。
…し、しまった。もしかして「若いのに恋人も作らず仕事ばかり!」と叱ってくるタイプか?!パートナーがいないだけでとんでもなく寂しいヤツだと思っちゃうタイプか?!パートナー文化撲滅をこんな日にまで願うことになってしまうのか?!

「そう、そうか…。君にはパートナーがいないのか」
「あ、あはは、ひとりでも楽しくやってるわ!」

寂しくなんかない、ひとりでホールケーキ食べるような女だからね!と必死に自分を弁護しているとゼノが黙りこくってしまう。顎に指を当てて考え込む姿に冷や汗が止まらない。私がこれまでどれだけの人間にハラスメント紛いの「かわいそう」を浴びせられてきたか。うう、ゼノの言葉が怖い。せっかく仲良くなれそうだと思ったのに。

「よし、トラブル対応は僕が引き受けよう」
「へっ?」
「その代わりと言ってはなんだがー…」

想定外の返事にすっとんきょうな声を上げる私。あれ?パートナーがいない私を哀れんだり、蔑んだりするんじゃないの?どうしてトラブル対応をゼノが?そもそもゼノも今回の件は完全に専門外でしょう、とぐるぐる回る思考をまとめて彼に何をどう伝えるか考え込む。
そんな私の混乱を知って知らでかわからないがゼノがそっと私の左手を取った。いきなり手を優しく握られ、じい、と真っ黒な双眸に見つめられる。それに狼狽して瞳を反らそうとしたのに、あまりにも真っ直ぐ彼の瞳が私を貪るものだからそれも叶わない。ゼノ、と彼の名前を呼ぶことすらやけにうるさい心臓に邪魔をされてしまった。

「今夜、君をディナーに誘ってもいいかな?」

………はい?

「今日でも営業しているレストランを知っているんだ。君はフレンチは好きかな?ああ、苦手ならば遠慮なく教えてほしい。君の好きなものを知るいい機会だ、どこにだって連れていくよ」

突拍子もないゼノの提案に言葉を失ってしまう。疑問が次々と浮かんでも仕方がない状況なのに私の脳内には「はてな」マークが乱立して、それをまとめる手段はない。一方、私の手を握ったままゼノは私を口説…口説いているのか?これ?

「えっと…Dr.ゼノ」
「なんだい?」
「あの…お誘いはとっても嬉しいけど…どうして急に?」

しどろもどろとゼノの行動を問う。本当にディナーのお誘いは嬉しいし、一緒にご飯に行くのはかまわない。しかもディナーの時間に間に合わせるべくトラブル対応までゼノが引き受けるというサービス付き。断る理由なんてない。
が、ゼノに私を誘う理由がない。しかも担当者にすら見放されたトラブルを引き受ける理由もない。
私の疑問に口角を上げて頬を緩める。大きな瞳を細めて微笑んだゼノは私の手を握る力をぎゅう、と強めた。そして私に答えを与えるべく彼が口をひらいた。

「君のような素敵な女性をクリスマスイブに一人にするような男に見えるかい?」

見える。
というか、女性を食事に誘う人だと思わなかった。しかもリップサービスまで欠かさないなんて、案外隅には置けない人なのかもしれない。

「…わかった、今夜はあなたに任せるわ。ただ、レストランはちょっと…」
「どうして?フレンチは嫌いかい?」
「今日は仕事だけの予定だったから化粧も服もホリデー仕様じゃないのよ。こんな女を連れてレストランに行くもんじゃないわ」

普段からカッチリとスーツを着て髪型を整えているゼノの身なりは今日も整っている。一方、私ときたら髪はひとつにまとめているだけで顔も最低限の化粧しか施していない。服だっていつもの人目を気にしたオフィスカジュアルを脱ぎ捨ててラフなワンピースに白衣を着ている。靴だってスニーカーだし、到底レストランに行けるような格好ではない。

「気になるなら僕が作業をしている間に整えてくればいい。もっとも…」

ぐう、確かに私用ロッカーには身なりを整えるための道具は入れてある。化粧品も、ヘアアイロンも、確か学会に履いていく赤いヒールもそこにある。…取り繕えなくはない。
そう自分の身なりについて頭をフル回転させていたときだった。ゼノの言葉の続きに、この思考を吹き飛ばされることになるなんて想定すらしていない。ただ、ゼノは私の瞳を見つめながらこう爆弾を投下するのだ。

「君はいつも可愛らしくて綺麗だよ。もちろん、今日も例外ではない。」

食べたいものを決めておいてくれ、とだけ言い残してゼノが作業場に向かうべく立ち上がった。やはりゼノは私を口説いている、というとんでもない事実のみを残してこの場を去ろうとするのは少しずるい。年甲斐もなく彼の言葉や行動に頬に熱を走らせて混乱している私をまた笑って「また後で」と背を向けてしまった。
…食べたいもの、食べたいものねえ。さっき話したメレンゲドールが食べてみたいと言ったら彼はどんな反応をするのだろうか?さすがに困った顔をするのかしら?そんなくだらない意地悪を考えながら、彼の遠ざかる背中を見る。
こういう状況を、人はなんて揶揄るのだろう?ああ、そうだ早くケーキを食べてレストランに連れて行かれても大丈夫なように身支度を整えないと。そんなことをもやもや考えながら残りのケーキを大きく頬張った。

公開日:2020年12月24日