寝坊した朝の話

時計を見た瞬間に息を飲み、心臓が跳ね上がる瞬間というものは誰だって経験があると思う。例えばそう、今の私の状況とか。

「ね、寝坊した!!」

いつもなら布団でごろごろ少しだけ微睡む時間があるものだが、家を出る時間に目覚めた私にそんなものはない。今の私にあるものは焦燥感と血の気が完全に引いて逸る心臓だけだ。
急いで起き上がりパジャマを脱ぎ捨てる。そして服を着替えてバッグを片手に部屋を飛び出した。どたばたと急いで支度をしている私がリビングに飛び込むと、同時に視界に飛び込んでくるのは優雅にコーヒーを口にしながり新聞を読んでいる恋人の姿だった。

「なんで起こしてくれないの?!」
「君があまりにも気持ち良さそうに眠っていたものだから起こしそびれてしまってね」
「その優しさ平日にはいらないからね?!」

悪かったよハニー、なんて悪びれもせずに微笑みながらゆったりとコーヒーを飲む。そんなゼノの目の前には焼きたてのパンとコーヒー、ヨーグルトが置かれていて私よりも遥かに早く彼が目覚めていたことを物語っている。なんなら主張の強いポンパドールも完璧にセットされていた。ぐう、裏切り者!

「朝食は?」
「今日はいらない!」
「おお、今日は、と言ったが君は今週に入ってから5回朝食を逃しているよ。つまり、毎日朝食を食べる時間を確保できていない。そろそろ会社で冷たいパンを齧るのにも飽きてもいい頃だと思うがね」

朝から本当によく回る口ね!と悪態をつきながら洗面所に飛び込む。さすがにノーメイクで職場に飛び込むわけにはいかないというプライドやら、今まで化粧でそれなり誤魔化してきた顔を見られたくないという本心やらが渋滞を起こしてしまっていて大変だ。
急いで顔を洗いメイクを始めた私にキッチンから「コーヒーもいらないのか?」と呑気な声が聞こえた。

「ごめんいらない!」
「せっかく豆をひいたのに」
「ごめんって」
「パンだって君が食べたいと言っていた店のものをわざわざ取り寄せたのに僕ばかりが消費しているね」
「えっなに?マジでなに?じゃあ朝起こしてもらっていいですか?せめて家出る時間まで放置しないでもらっていいですか?」

僕は君のママではない。そうピシャリ言い切られてしまってぐうの音も出ない。わざわざ洗面所まで私をからかうために足を運んだゼノに寝坊やら朝から騒がしいことやらを咎められながらメイクをするはめになるなんて最悪だ。

「ねえゼノ、私に文句言う時間で新聞読んだほうが有意義じゃない?」

と遠回しに「うるさいんだけど?」を突きつけてやるが彼にそれは伝わらなかったらしい。それどころかずかずかと洗面所に入ってきて髪をセットしている私の手首を掴み、「ハニー」と私を呼んだ。

「なに?」
「僕はね、君とゆっくり朝を過ごしたいんだ。朝食だって一緒にとりたいし、ニュースだって君と笑いながら世界の変動を楽しみたい。それなのに君は寝坊ばかり。僕ばかり君を愛してるんじゃないかと毎朝不安になるよ」
「来週から頑張るから今ははなして!!」

ちゃんと愛してるから!と叫んでゼノを振りほどく。そして歯を磨いてムッと機嫌が悪くなってしまったゼノを押し退けて洗面所から脱出する。

「今日は早く帰ってくるから許してダーリン!愛してるわ!いってきます!」

コートを着ながらそう叫んで家を飛び出した私の背後から「わかったよハニー、いってらっしゃい」と呆れたような、少しだけ笑みを含んだような声が聞こえた。

公開日:2020年12月1日