ケルベロスと小型犬

リクエスト内容:新世界で犬を飼いたい夢主のお話

※なんでも許せる人向けです。


「犬が飼いたい」

そうほぼ無意識に呟くと目の前で作業をしていたゼノが怪訝そうに私を見た。その瞳は「また馬鹿なことを…」と今にも突きつけてきそうだ。

「また君は馬鹿なことを…。犬?」
「あ、聞いてはくれるんだ…」

作業を始めてもう数時間、そろそろ休憩を挟んでもいい頃合いだったからかゼノが私の言葉を聞き返してきた。作業をしていた手は止まっていて朝からずっとにらめっこを続けていた薬品はコトンと机に置かれてしまった。
いや、そんな大した話じゃないんだけど…と思いつつもずっと、ずーっと考えていた野望にも似た願いを口にした。

「犬派なんだよね、私」
「それで?」
「だから飼いたい。今すぐに。」
「君にここら一帯の生態調査を任せたことがあったが、間違いだったようだ」
「生態調査はちゃんとやったよ!」

ほら!と研究室の一角にまとめていたお手製の資料を取り出して見せつける。それを寄越せと言わんばかりにゼノが手のひらをこちらに向けた。その手のひらに資料を渡すともう既に読み終えているであろうそれをぺらぺらとめくり始めた。

「イヌ科イヌ属タイリクオオカミ…いや、この場合イエイヌだね。イエイヌがいたなんて報告はなかったが?」
「そもそもイエイヌを見つけたら連れて帰ってきてるね」
「エレメンタリースクールの生徒でももう少し考えて生き物を拾うよ」

た、確かに…と自分の幼稚さに絶句していると大袈裟な音を立てて研究室の扉が開いた。その音の方向を見るとスタンリーがタバコを吸いながらこちらに向かって歩を進めていた。その表情はなんだか上機嫌に見える。

「よ、研究者コンビ!休憩中?」
「おお、スタン!そうだ、君が名前のかわいい野望を叶えてあげなよ」
「野望?」

なにか企んでんの?と私の頬に唇を落としながら問うスタンリー。その唇をくすぐったく思いつつ、片目を閉じながらそれを受け入れるとスタンの唇が鳴った。

「可愛いハニーがなに企んでんのかは知らねえけど、できることなら協力すんぜ」
「本当?!」
「もちろん」

その言葉にわかりやすく表情を明るくしてしまう。そんな私を可愛い可愛いと頭を撫で甘やかしつつ、私の野望を聞かせてよと笑った。その笑顔に、確かにスタンリーなら実現させられるかもなんて淡い期待が募ってしまう。

「あのね、犬が飼いたいの」
「諦めな」
「そ、そんな…」
「アンタも見たろ、犬なんてぜーんぶ野生化しちまってる」

以前の生態調査にはスタンリーが同行してくれたこともあり、この世界の生物がどのような進化を遂げたのかは彼も理解していた。だからこその即答だったのだろうが、それは些か早計にも見えた。
野生化していることは私もわかっているし、なんならそう報告書にもまとめている。しかし私の犬愛がそんなことでおさえきれるはずがない。イヌ科イヌ属は存在しているのだ、まだ希望はいくらでもある。

「ここで犬の歴史や成り立ちについて説明しましょう」
「ガチで犬飼いたい人じゃん」
「おお、この世界で君のプレゼンとは興味深いな。聞かせて貰おうか」

スタンリーの瞳には呆れが浮かび、ゼノは楽しそうに私の話に身を乗り出した。…たぶんゼノは私が何を言おうとしているかなんてお見通しだろうに。ただ、どうしても私はゼノを説得しなくてはならないのだ。彼はこの新世界のリーダーであり、犬を飼うなら許しを得なくてはならない人物の一人。私のプレゼンが面白かったら実現してもいいよと言わんばかりに挑発的に笑っているゼノに、彼が既に知っているであろう知識を披露する。

「まず飼い犬のルーツだけれど」
「おや?トマークトゥスの話はしなくてもいいのかな?」
「ゼノ、もうイヌ科イヌ属が存在するのに大先祖の話なんて…」
「僕は知識があるが、スタンはどうかな?すべての人間が理解し納得できるプレゼンが大前提だと思うが」

その発言にぐぅ、と言葉を飲む。仕方ないとスタンリーに犬の起源をツラツラツラと話すとどうでも良さそうに相づちを打たれた。そりゃそうだ、大体の人間は犬の起源なんかに興味はないのだから。
一息で説明を終わらせた私は次に人類がどのようにオオカミと共存しパートナーになったか説明を始めた。はじめはそれこそ、飼い犬と呼ばれるイエイヌもただのオオカミだったのだ。そこは今と変わらない。だからこそ昔と同じアプローチをすればきっと彼らは牙を抜くだろう。

「つまり、私たちが目指すべきはオオカミの家畜化なのよ」
「ヘェ、まぁ話聞くかぎり数世代で飼い慣らせそうだね」

実際に先輩人類たちはそれをやってのけたのだ、私たちにできない道理はない。ただ少し時間がかかりそうなこと以外はなんの問題もないのだ。
スタンリーを引き抜けそうで頬が思わず緩む。ゼノはスタンリーには甘いし、彼を陥落してしまえばこちらのものだ。そう気持ちが逸ると思わず饒舌にもなる。

「でしょ?だからね、スタンリー、外にいるオオカミを群れごと捕まえてきて欲しいの」
「群れごと?一匹か番で勘弁してくんない?さすがにオオカミの群れは連れてこれないっしょ」
「急に群れから引き離される子がかわいそうでしょ?!」
「その優しさ、ちょっとでも俺にもわけてくんない?」

そんな話をしているとゼノがまったく口を開いていないことに気づく。私の犬プレゼン、そんなに悪かったかな?スタンリーは引き込めそうなんだけど…と首を傾げていたら呆れたようにため息をつきながらゼノが口を開いた。

「感染症のリスクについて話をしないなんてズルいんじゃないかい?」
「うっ…」

不利になる情報は黙っておくのが定石だ。だから感染症や考えうるリスクについては一切口にはしなかった。なのにこの目の前の科学者はそこをズケズケと暴くのだ。
狂犬病の致死率を知らないわけじゃないだろうとゼノが叩きつけてくるものだから返せる言葉が見つからない。かろうじて出た「私がお世話するから」という地を這うようなうめき声はスタンリーの「アンタが死ぬのはナシ」というなんとも慈悲深い一言で無効化されてしまった。

「それにしてもアンタがそんなに犬好きだとは知らなかったぜ。だからオオカミは殺さないでくれなんて言ってたんだな。」
「私、犬が死ぬ映画も見れないの…」
「ヘェ、かわいいじゃん」
「犬が?」
「アンタがだよ…」

もう犬のことしか考えられない私は犬飼いたい飼いたいと子供のようにぐずるしかない。やだやだ犬イヌ犬飼いたいと騒いでいるとゼノが追い討ちをかけようと口を開く。もうこれ以上いじめないでほしい。

「そもそも君、今は自分のことで手一杯だろう?」
「頑張るから…」
「エレメンタリースクールのガキみたいなこと言うじゃん」

えっ今日小学生と同列に扱われるの二回目なんだけどそういう日なのかな?!確かに小さい頃は犬が飼いたいと両親を困らせたっけ。あの時はどうやって説得したんだったかな?幼いながらに必死に口を回した記憶がある。
ただ今はもうダメな大人なので欲望に忠実にあれが欲しいこれが欲しいと口にするばかりだ。こんな世界じゃなかったらお金の力に頼っていたな。

「犬飼いたい…」
「全然食い下がらねーじゃん、ウケんね」
「ポメラニアン…チワワ…ダックス…トイプードル…柴犬…」
「見事に小型犬ばかりだね。オオカミからそこまで進化させるのにかなり時間がかかるよ」
「だから今すぐ始めたいんだよぉ!あと柴犬はちょっと大きい」
「どうでもいいよ」

私を宥めるようにスタンリーが頭を撫でる。うう、感染症のこと聞いてから手のひらをゼノにひっくり返した裏切り者め!普段ハニーが望むならなんでも叶えてやんよとか言ってるのは嘘だったのか!

「わかったもうゼノでいい。ゼノを飼う。よく見たらかわいいし」

自棄になった私は目の前のゼノに「Come!」と呼び掛ける。するとゼノの真っ黒な瞳がじろりと私を睨んだ。ダメ?と首をかしげると「いいと本気で思っているならもう今日は休んだ方がいい」と突き放されてしまった。いや、作業が残っているから本当に休んだら怒るくせによく言うよ。

「それに僕以外に適任がいるだろう?」
「へ?」
「海兵隊…つまりスタンはデビルドックだよ」
「あー、そういやそうだな」

わん!と今にも言いそうな、口角を上げた顔でスタンリーが胸の前で手を丸めた。そんな彼が撫でてもいいぜ?とタバコを口の端で咥えたまま、すり、とそれこそ犬のようにすり寄ってくる。…うーん、ありか?かなりの大型犬だけどゼノよりかは可愛げがありそうだ。
ただ…。

「デビルドックというより…ケルベロス…?」
「ふっ…ふふっ………」

素直に感想を伝えるとゼノが笑いだしてしまった。あ、やっぱりそうだよね?とゼノに同意を求めると余計に声を上げて笑いだす。しかしスタンリーはその発言を良くは思わなかったらしい。タバコを灰皿に押し当てる力が強く、灰皿が悲鳴を上げた。そしてケルベロスが綺麗な双眸を細めて私たちを観察するようにじろりと見つめている。

「怪物じゃん」
「部分的にそうでしょ」
「アンタ俺のことなんだと思ってんの?」

とっても頼りになる番犬さんでしょ?と答えるとそりゃ違いないねと再び口角が上がった。た、単純だなぁと思ったりはしたが本人に言ってしまうとまた機嫌を損ねかねられない。そんなことを考えているうちに私よりも大きな体がすり寄ってきて手を取った。そして私の手をすり、と自分の頬に寄せ「アンタの犬でいーよ」ととんでもないことを呟いた。
その言葉に唖然としていると私の手の甲がスタンリーの唇に当たった。そのままぺろりと甲を舐められ、その熱とぬるりとした感触にびっくりして手を引っ込めてしまう。

「な、なんか違う可愛くない!」

そう舐められた手をもう片方の手で労るように押さえながら声を上げた私にニヤニヤ笑いつつスタンリーが唇を開いた。

「ほらgood boyって褒めてくんないと」
「こんな犬がいてたまるものですか!」

ぶんぶん手を振りスタンリーを否定する。そもそもケルベロスを私が飼いこなせるわけがない。首輪すらつけさせて貰えなさそうだ。しかしこのケルベロスは何故か私に飼われるつもりらしい。今も従順なそぶりを見せては私にお腹を見せる勢いで甘えた態度と声を隠さない。

「そもそも私にそんな趣味はないの!」
「ゼノは良くて俺は駄目なん?」
「な、なんか…た、食べられそう…だから…」

そうしどろもどろと答えるとスタンリーがニヤリと不敵に微笑み「可愛いね」なんて伝えて頬にキスをするのだ。こんなことなら、外にいるオオカミのほうが無害じゃないかしら?なんて思いつつ彼の唇を受け入れているとそれを一部始終見ていたゼノがぼそっと呟いた。

「これじゃあ、どっちが飼い主かわからないな」
「えっ私が飼われてるの?!スタンリーに?!」
「ケルベロスと小型犬という印象を受けたよ」
「ケルベロスの圧がすごい」

勝とうだなんて考えたことはないけれど、いよいよ彼には敵わないことを痛感させられる。それなのに目の前のケルベロスは尻尾を振りながら小型犬に好意を示すのだ。…前々から思っていたけれど、スタンリーってかなり私のこと好きよね。まぁ本人に言ったら調子に乗るなとか言われちゃいそうだけど。

「Shake hand!」

いきなりスタンリーの凛とした声が研究室に響く。その張りつめた声にびっくりしてスタンリーが私に向かって伸ばしていた手を反射的に握る。スタンリーはその手をじろりと見て、小さく「bad girl」と呟いた。
えっもしかして今スタンリーに「お手」させられてる?!握手したから怒られたの?!真っ昼間からどういうプレイ?!

「Shake hand」
「えっ…あ、あう…」
「Shake hand!」
「わ、わん…?」

そう犬のように鳴いてみながら手を丸めてスタンリーの手のひらに乗せてみる。するとスタンリーは唇を楽しそうに歪めながら「Stay」なんて言葉を吐くのだ。い、いやいやなんのプレイ?!
じい、とスタンリーの綺麗なクリアブルーが私の瞳を離さない。その瞳があまりにも澄んでいてドキリと心臓が跳ねる。数秒が経った頃にスタンリーがようやく「good girl」と私を褒めて額に唇を落とした。いやいやいやなんのプレイだったんですか?!

「えっなんのプレイ?なんでお手?」
「犬飼いたいんだろ?」
「犬飼いたいから私が犬になっちゃお!ってなるわけないじゃん?!なんで?!えっなんで?!」
「良いお手だったぜ?」

そう言ってまた瞼にキスをするスタンリー。何故その行動をとったのかを教えて貰えずにモヤモヤとしながら口をぎゅっと結ぶとその顔を見て笑いだしてしまった。

「悪い悪い、アンタが可愛くてつい」
「もうやらないで」
「いや?それは約束できないね」

そうキッパリ断ったスタンリーに目眩を覚える。こ、このままだとスタンリーの犬にされてしまうのでは?と助けを求めるようにゼノに視線をやるが目をあからさまに逸らされてしまった。薄情者め!

「あ、俺昼から見回りだったわ」
「そういえばスタンリー、今日なにしに来たの?」
「名前をからかいに」
「暇なの?!」

まさかの回答に声を荒げてしまう。海兵隊特殊部隊隊長が見回りすっぽかしてまでやることかな?!と彼を詰問するとケラケラと笑いながら「部下が優秀なんでね」と上手くかわされてしまった。
頬を膨らませたままの私にまた「やっぱりアンタ、かわいいよ」と伝えて手を振りながら研究室から出ていこうとするスタンリー。その背中にいーっ!と静かに威嚇をしていたら急にスタンリーが立ち止まりくるりと振り返った。

「なに威嚇してんの?」
「な、なんでもない…」
「ま、いいけど。今日の夜一緒にメシ食おうぜ、食堂で待ってんよ」

そう言って扉に手をかけて研究室を出た。扉が閉まるのを見届けた私はなんだか疲労感に襲われてしまって思わずため息をひとつ。そんな私を見てゼノが楽しそうにとんでもないことを口にするのだ。

「地獄の番犬に好かれた気分はどうだい?」
「さ、最悪よ!」

こんな時こそ、犬という人類のパートナーが必要だ、と鼻息荒くゼノに伝えると「僕を口説き落とせたらオオカミを城に入れてもいいよ」なんて遠回りなNOを突きつけられてしまった。しかし諦めるわけにはいかない理由が先ほど出来てしまった私はその挑発を受け入れ、飲み込むしかないのだ。
ああ、余計に犬が飼いたくなってしまった。このもどかしさは犬という至高の生き物でしか癒せないだろう。
そして脳裏を過るのは早急になんらかの方法でオオカミの家畜化及び無害化について考えないとスタンリーの犬にされてしまう!はやく飼い犬と呼べる生き物をこの新世界に生み出さないと…という出口のない焦りだった。
そんな危機感を抱きながら「狂犬病のワクチンの成分って、」とゼノの専門外と知りつつ、雑談として科学の話題を彼に振ったのだった。

公開日:2020年10月20日