ふたりの世界の傍観者 石神千空視点

※日本組と和解後のif時空です。ご注意ください。


「Dr.千空!」

明るく柔らかい女の声に足を止めた。声がした方向に顔だけを向けると小柄な女が表情を緩めながら俺を呼び止めていた。カツカツと足音を鳴らしながら俺に近づいてくる白衣は、NASAの元科学者で石化前からなんとなく顔見知りだったDr.名前だ。
顔見知りといってもNASAの教育部門だった名前大先生の講義に数回出席、何回か質問をぶん投げてメールのやり取りをしたことがある程度。まさかこんなとこで再会することになるとは思わなかったが、ロボット工学専門の名前の話はいつ聞いても唆るものが多い。
そんな大先生に引き留められて立ち止まらないはずがない。今日も世間話とは程遠い科学の話題を吹っ掛けてやろうとクククと喉を鳴らした。

「怪我の具合を見せに来てって言ったじゃない」
「あ゛ー…もう完治してんだわ。大先生のお手を煩わせるほどじゃねえよ」
「腹部を撃ち抜かれてるんだからきちんと治療を受けるべきよ」

和解してから数週間。なんだかんだと名前は俺の怪我の具合について気にかけてくる。どうやら名前はあのスタンリーと付き合ってるとかなんとかで、自分の男が怪我をさせたどころか殺しかけた俺に引け目を感じているらしい。正直こんな話より科学のマジ話をしていたいんだがな。
自分の腹を雑に叩いて「完全に塞がってんだよ」と伝えると苦笑いをして名前が「なにかあったら言ってね」とため息を吐いた。

「つーかなんで日本語喋ってんだよ。俺は英語できんぞ」
「日本語難しいからね。たまに喋ってないと忘れちゃうから付き合って」

そう言って俺の隣に並ぶ。名前は両手で紙の束を抱えていてじい、とその束を凝視してしまう。…Dr.名前の論文だったらと思うと気が気じゃない。論文じゃなくてもその知見が綴られているとしたらきっと俺も知らない知識が載っかっているはずだ。絶対に読みたい。
そわりと紙を凝視していたもんだから名前が俺の視線に気づく。クスリと笑った名前が「はい」とその束を俺に差し出した。

「読む?Dr.クロム用に書いたものだから内容は知ってるかもしれないけど」
「読みまくるわ、あの名前先生の書き物だぞ」
「ふふ、Dr.千空の論文も早く読みたいな」

そう笑っている名前からほくほくと紙を受け取ろうとした瞬間だった。バッと名前の体が傾いて紙を受け取り損ねる。は?と名前の方向を見るとギロリ、俺を冷たく睨んでいる瞳。名前の肩を抱いて自分に引き寄せ、俺から遠ざけているのはそう、名前の恋人だと噂のスタンリーだ。

「名前に触んな」

低い声がそう呻けばそれにビクリ肩を震わせてしまう。ただ名前と会話をしていただけ。それなのにとんでもない殺意を向けられている。思わずサッと資料に伸ばした手を引っ込めてしまった。なんもやましいことはしてねえんだがな。

「コラ、千空くんが困ってるでしょ」
「このエロガキ、名前の胸ガン見してただろ」
「資料を見てたの。ほら離して」

め、めんどくせぇ~!
ただ俺は名前が書いた科学文献を読みたかっただけなんだが?!今にも噛みついてきそうな形相で俺を見ているスタンリーはガッチリ名前を捕まえている。名前は身を捩って逃げようとするも体格差がありすぎる。すぐにねじ伏せられて名前の抵抗は無に帰した。

「はぁ…あなたって人は…」
「ため息なんて酷いなハニー?もとはといえばアンタが可愛すぎるのが悪いんだかんね」

目の前でイチャつき始めた名前とスタンリーからじり、と一歩だけ離れる。スタンリーはともかく、名前については俺が昔から講義やメールのやり取りをしていた科学者だ。そんな彼女の…こう、女の部分?を見てしまうのは気まずくて仕方ない。
別に誰がどんな関係だろうが興味はないが、それに巻き込まれてしまうのも勘弁だ。とくに、今のような場面では名前に対して一切興味がない…いや、科学知識にはありまくるが、彼女自身には興味がない俺にとってはとんでもない巻き込まれ事故だ。

「これなに?」
「私の専門分野についてまとめた資料よ。クロムくんに説明しようと思って」
「日本語じゃん」

雑に資料を取り上げるスタンリー。それに思わず「あ゛?!」と声を上げるとまた鋭く睨まれる。テメーにその価値わかんねえだろ!と言ってやりたかったが、俺でもわかるくらい気が立っているヤツにそんなことは言えない。ぐぬ、と黙った俺に名前は「ごめんね…」と苦笑い。そしてスタンリーから資料をぐいっと取り返した。

「スタンは興味ないでしょ」
「好きなことやってるアンタが好きだが浮気は良くねえなお姫様」
「なにが浮気ですか。ちょっと会話してただけじゃない」

ぺしんと紙の束でスタンリーの頭を叩く。こ、怖ぇ~…、名前大先生よくもまぁあのスタンリーの頭ぶん殴れるな。不服そうに名前を捕まえたまま離さないスタンリーはそのまま名前の首筋に唇を落とす。自由の国すぎんだろ、アメリカ。人前だぞ。

「もう…」

呆れたように小言を呟いた名前はトントンっとスタンリーの胸部を叩いた。すると嫌そうに眉間に皺を寄せながらも「…わーったよ」と言って名前をホールドしていた腕をほどく。見事に懐柔している。こりゃ地獄レース前に名前先生を言いくるめときゃ良かったな。いや、火に油か。
そんなふたりを眺めていると名前がようやく俺に資料を差し出してくれた。おそるおそるそれに手を伸ばすと今にも舌打ちしそうな顔をして不機嫌そうな顔を隠さないスタンリーが視界に飛び込んできた。受け取りづれえよ。

「読んだら感想聞かせてね」
「あ゛ぁ、まだまだ聞きてえことが山ほどあんだ。またガッツリ付き合ってもらうぜ」
「ふふ、いいよ。AI爆誕させちゃお」
「ほーん、人工知能分野まで手出してたんだな」
「専門知識ばっかじゃ楽しくないからね」
「確かにな」

クククと喉を鳴らして笑うと名前もクスクスと楽しそうに微笑んだ。調子は狂わされたものの、俺だって名前には用がある。ロボット工学なんて人類の発展にこれ以上必要な知識はない。そう、どれだけ最強の軍人に邪魔されようがそれだけは手を引くわけにはいかない。
そんなことを思いながら名前が書いた資料に視線を落とす。クロム用に日本語で簡潔にロボット工学について書かれた文献。簡単に言葉をまとめているものの、所々難しい言葉や漢字が羅列されていて少し翻訳が必要そうだ。

「おい名前、この資料」

ちょっと修正していいか?と顔を上げて確認をしようとしただけ。そもそも資料に目を落としていたのはたった数秒。なのに目の前にいた名前は忽然の姿を消している。そして、少しギギギとゆっくり目線を動かせばすぐ近くの壁を背に、スタンリーに迫られている名前が映った。

「日本語でなに話してたん」
「なあに?妬いてるの?ふふっ、スタンったら可愛い」
「…妬くに決まってんだろ。そんな楽しそうにしちゃってさ」
「そんなに心配しなくても私にはスタンだけよ」
「どうだか」
「あら可愛いハニーを疑うの?」

そんなに拗ねないでと名前がスタンリーの首に腕を回した。そしてそのまま背伸びをしてデコ同士をこつんとぶつける。それに気分を良くしたのか、スタンリーが名前の顎をくいっと上げて「愛してんよ」と愛を囁きはじめてしまった。
なんっだこの光景。ここ、ただの廊下だぞ。こいつらの部屋とかじゃねえんだぞ。

目の前で繰り広げられるカップルのベタベタ具合にドン引きしているとスタンリーの目玉だけがギロッと俺を睨む。そして名前にキスをしながらビッと俺に中指を立てた。こ、こいつ名前が見てねえのをいいことに喧嘩売ってきやがったガキか?!
アホくさ…とふたりに背を向けて目的地の反対側に歩き出す。さっさと退散するに限る。本当は今日は名前を取っ捕まえて聞きたいこともあったわけだが、もうそれどころではない。彼女の書いた資料が手に入っただけ良しとしよう。
次名前に会ったときにその番犬にきちんと首輪をつけて飼い慣らしといてくれと懇願するしかない。そう深くため息をつきながら唆る資料に再び視線を落とした。

公開日:2021年3月6日