共謀シガレット おまけ②

今年の冬はいっそう、寒さが厳しい。
寒くて夜に目が覚めたり、朝なかなか布団から出られなかったり。廊下はもっと冷え込んでいて誰の趣味か知らないが定期的に空気の入れ替えが行われている。
命からがら研究室に飛び込んで寒さに泣きそうになりながら薪ストーブをつける。その前で毛布にくるまり丸まって暖を取り、そのまま二度寝が最近の習慣になっていた。

そんなわけで今日も薪ストーブの前でぐっすり眠っていたわけだけれど、その安寧も太陽が昇るにつれて安易に奪われてしまう。毛布を力強く取り上げられて「起きな」と恋人の声がすればいよいよ一日が始まったことを思い知らされた。私のもうちょっと…という懇願は無視されて無理やりストーブの前に座らされるとどかり、その隣に座るのは恋人…スタンリーだ。

「アンタ冬になるとダメダメだな」
「だって寒いんだもん…スタンリーは体温高いね…」

むにゃむにゃと寝起きもいいとこな言葉になっていない返事をしながらスタンリーに寄りかかる。筋肉質だからかぽかぽかと温かい彼の体温に頬を緩ませて、彼が持ったままだった毛布をぎゅうと握る。そしてまたうとり、瞼が落ちればスタンリーから呆れたような声がした。

「ほら起きねーと朝飯食いっぱぐれんぞ」
「いらない…」

そんな会話をしていると大きな音を立ててゼノが研究室に飛び込んできた。ドカドカ大袈裟に足音を鳴らして私に近づいてきたかと思えば、私の様子を見てすぐに研究室の窓を無慈悲に全開にする。
急激に冷え込む室内、思わず全身を震わせればスタンリーから笑い声が漏れた。笑い事じゃない!と毛布を奪ってスタンリーにしがみつくと、そんな私を一瞥したゼノが薪ストーブまで私から奪い取った。

「悪魔!風邪ひいちゃう!」
「今日は朝から薬品を扱うからストーブはつけるなと言っていただろう!」
「うえええごめんなさいぃ…」

実は今日のスケジュールを覚えていた私はこれ以上の抵抗を諦めた。今日はここ最近で一番寒さが肌を刺している。外は雪が降っていて起きたときにその光景を見た私は「こりゃ今日のスケジュール延期だな、ゼノも悪魔じゃないし」とゼノから慈悲を賜る予定だったのだ。
それなのに目の前の上司にあたる人は私に弁明の余地すらくれず、なんなら毛布まで私から剥ぎ取ろうとする。ぐずぐずと慈悲を乞う私を「君は!今から!作業だよ!」と叱責すればえいっと毛布まで取り上げられてしまった。

「ははっ、犬の喧嘩じゃん」
「なに笑ってんだ可愛いハニーの危機だぞ!」
「俺がカワイイカワイイ言い過ぎて自分でも可愛いって言うようになっちまったなアンタ」

そう笑いながら私の頭を撫でてすぐに煙草を取り出した。うー、と唸りながら体を丸めた私の隣でスタンリーが火をつける。それを深く吸い込む彼の横顔を眺めていたところ、「あ、」と忘れてはいけないことを思い出した。今からこの研究室は火気厳禁である。

「スタンリー、今からこの研究室は喫煙禁止だよ」
「誰が決めたんだそんなモン」
「僕だよ」

ゼノに灰皿を押し付けられて舌打ちをしながら煙草を押し付けた。この人、私には押し通すくせにゼノの言うことは聞くのよね。まったく。
煙草を消してすぐにぐいーっとスタンリーに引き寄せられる。突然の行動に驚いて「わ!」と声を上げると背中に腕が回った。そして指で顔を撫でたあと「名前」と名前を呼ぶ。…はいはい、煙草代わりね。
顔を上げるとにまーっと口角を上げているスタンリーと目が合った。そのまま数秒、じいと瞳を見つめられたあとにかぷ、と噛みつくようなキスが降った。煙草を吸ったばかりだからかいつもより苦い彼の舌がぺろりと唇をなめ上げる。それに観念して唇を緩めると容赦なく舌が口内へ侵入してきた。
ふ、と息を漏らすとスタンリーは唇を貪ったまま喉を鳴らす。彼の指先が温かくて心地良い。もうすっかり指先まで冷えきってしまった私は顔を撫でていたその指を絡めて握る。そうすればスタンリーがぐぐぐと床に私を押し倒した。

「朝から煽んなよ」
「煽ってないし床冷たくて固いから嫌」
「ふーん、そういうとこもカワイイね」

そう言ってもう一度スタンリーの唇が、

「朝からイチャイチャイチャイチャ!あーわかったよ僕ひとりで作業をするから出ていってくれないか!」

今まで黙って準備をしていたゼノから大声の苦情が入ってスタンリーの動きが止まった。「やべ」と彼から声が漏れて、ばつが悪そうに眉間に皺が入った。そしてそのまま私を拘束していた力を緩める。
ゼノを怒らせてしまっては仕方ない。するりとスタンリーから抜け出して「ごめんごめん!」と声を上げながら立ち上がるとじとーっと私を睨むゼノと目があった。そして机の上には今日必要な薬品や道具がずらり。…完全に準備が整ってしまっている。こういうのって助手の仕事なのに。

「ちゃんと働きます…」
「よろしい」

ゼノの爪がカチンとビーカーをはじいた。寒いとか動きたくないとか言っていられない。科学リーダー様に見限られては今後の生活に支障が出てしまう、というか私には科学しかないのだ。要らないと言われてしまってはこの共同生活で私が役立てることなんて他にない。
よし、と息を深く吸って今日の作業内容を思い出す。どうせ主な作業はDr.ゼノが終わらせてしまうから私はそのサポート。まずはあの薬品を分解させて…と手順を組み立てている最中だった。

「…よくもまあ、喫煙者とキスができるね」

えっなんで急に暴言吐かれたんですか?!
私を一瞥もせずに今日の作業を確認しながらゼノがそんなことを口にした。嫌味にしてはキレが良すぎる、精神的に大怪我である。しかも、言わんとすることは理解できるからたちが悪い。

「………私もそう思う」
「君ほどの科学者が恋愛に浮かれて自らの健康を犠牲にし、寿命を縮めている。おお、なんて嘆かわしいんだ」
「え、なに?機嫌悪いんですか?ごめんって」

確かに今日の仕事を放置してスタンリーとイチャついていたのは反省している。けれどここまで言葉の棘で刺されてはキツイものがある。そしてスタンリーはスタンリーでゼノからの非難から逃げるべくソファーに座って息を潜めていた。うぐ、恋人が幼馴染にいじめられてるのになんて薄情な人。

「承知の上だろうがまだ医療は不十分だからね。もし髄膜炎になりでもしたらまず助からないよ」
「い、痛いとこ突いてくるね…」

ゼノの言葉に苦笑いを返すしかない私。喫煙者と交際するにあたって、それは十分承知の上だった。そもそもキスなんかしなくても受動喫煙だけで十分なリスクだし今さらな話だ。煙草はゼノが普段から言うとおり、立派な毒ガスなのだから。
…それにしては話が性急すぎるような気がする。冬支度で抗生物質は作ったし、髄膜炎を発症しても死に至ることは…ないとは言い切れないけど、可能性は低い。まず助からないという結論はゼノにしては浅慮な気がしてならない。

どうしても煙草を吸うことで私にリスクが及ぶ、ということを強調したそうな物言いだ。不思議に思ってゼノの顔色を伺うとゼノはニヤニヤ楽しそうに口元を歪めながらスタンリーが座っているソファーの方向を顎を上げて眺めている。
…ああ、なるほど。これはスタンリーに対する制裁なのね。乗っかったほうが良さそう。

「髄膜炎は発症したら致死率50%だっけ?」
「そうだね、そして助かっても後遺症は残るだろう」

もちろん致死率は治療を行わなかった場合。まぁ、絶対に発症したくないのが本音だし少しくらいスタンリーに煙草の有害性を知ってもらうにはいい薬だろう。知識もなく煙草を吸っているわけじゃないと思うけど。

「まぁ煙草は私が作ったものだしリスクは承知の上だよ」
「…髄膜炎てなに?」

ここで話を無言で聞いていたスタンリーが病気について私たちに問う。それにゼノは心底楽しそうに意気揚々と病気の説明を始めた。まったくいい性格してるわ、このDr.は。

「髄膜炎というのはね、髄膜に炎症が起きることだよ。主な原因はウイルスや細菌で、感染症の一種だとされている。喫煙者はこの細菌を保有している可能性が高くってね…それがキスなどの接触によって非喫煙者に移ってしまう危険性があるんだ。おお、まるで今の君たちの状況じゃないか!」
「症状は」
「この場合はウイルス性髄膜炎となるから、頭痛や高熱、首の硬直…嘔吐などが上げられるね。あとは…そうだな、炎症の箇所によっては失語症や空間認知能力の欠如が起こりうる。なぜならどうしても脳に近い場所で発生する炎症だからね、脳にまで炎症が及んでもおかしくない。それに無事完治したとしても後遺症が残る可能性もあるね」

えっぐ。全て事実だけれど彼の強調の仕方がえげつない。きっと今までの論文発表やプレゼンでも同じような手法を取っていたのだろうけれど、手慣れすぎていて怖い。私も彼の手法に騙されないように気をつけよう。

「名前は体力がないからね…発症しなければいいけれど」

い、いじわるだなぁ。と、言ってもこんなことでスタンリーが煙草を止めるとは思えない。そもそも、私はそういう類いの予防ワクチンは片っ端から接種していたし発症どころか感染の確率もせいぜい数%といったところだろう。それよりも受動喫煙のほうがよっぽどたちが悪い。
もう十分煙草の有害性について苛め抜いたわけだし、タネ明かしでもしようかなとため息をついた瞬間、ぐしゃりとスタンリーが煙草を握りつぶす音がした。

「………禁煙するわ」
「おお…」

まさかの展開に「えっ」と裏返った声を上げてしまった。い、いやいやいやあのスタンリーが禁煙?!嘘でしょ、と言葉を失ってしまう。

「あなた禁煙って言葉知ってたのね?!」
「俺のことなんだと思ってんだ」

思わずからかってしまうけれど、私のために禁煙に踏み切ろうとするスタンリーに思わず頬に熱が走った。こ、こんなことで愛されてると思い知るなんて想定外だ。完全に巻き込まれ事故だ。
一方、ゼノもあんぐり口をあけて驚いている。私よりも長い間スタンリーに禁煙を説いてきただろう彼の苦労は想像するに難くない。それが一人の女への被害を説いただけでいとも簡単になし得てしまったもので、彼も意表を突かれていた。

「う、嬉しいけどニコチンの離脱症状って結構キツいのよ?本数を徐々に減らしていったほうがいいんじゃ…」
「るっせ、もう決めたかんね。ぜってー吸わねー」

そう言って煙草をゴミ箱に思いっきり投げる。今彼が吸っている本数は一日20本、いきなりそれを0本にするというのは些か無謀な計画に見える。…一日の本数を増やすためにいろいろ私を口説いていた彼がまさか煙草を捨てる日が来るだなんて。今まで私が折れて本数を増やしてあげてた意味とはなんだったのか。というか、一日10本にした翌日、早々にギブアップした男がいきなり禁煙はやはり無謀である。

「スタン、僕もいきなり禁煙はリスクが高いと思うよ。反動でまた本数が増えてしまっては意味がない」
「アンタが煽ったんだろ。言っとくが俺は名前のためならなんでもすんよ」

そう言ってマッチまでゴミ箱に投げ捨ててすくりと立ち上がった。外の空気吸ってくる、と言って研究室を出ていってしまったスタンリーの背中を呆然の眺める科学者がふたり。
パタン、と扉が閉まった瞬間に顔を見合わせて戸惑った声を交わしあう。それはもう面白いくらいに狼狽した声と言葉、そしてゼノへの叱責だ。

「やりすぎよ!」
「僕だって想定外だ!まさかスタンが禁煙を宣言するなんて…ど、どうすればいい?」
「謝ってきて!私、髄膜炎ならワクチン打ってるしそもそも抗生物質作ってるんだから治療だってできるでしょ!」

ふたりでてんやわんや、手元の薬品なんて無視してスタンリーの禁煙事件について話し合う。今までどれだけ健康被害を訴えても動かなかった彼から煙草を奪えばなにが残るのか!確かに本数は減らして欲しかったしゆくゆくは禁煙という形に持っていきたかったがこれはあまりにも荒療治すぎる。

「…何日持つと思う?」
「僕は三日が限界だと思うね。ニコチンの離脱症状のピークがそこだ」
「私は今日中に離脱症状で倒れると思う」
「わかったよ!煙草を持って謝ってくるから君は作業を続けててくれ!」

がたんと立ち上がったゼノにポケットから煙草とマッチを取り出してずいっと差し出す。それをしぶしぶ受け取ったゼノがちらりと私の顔色を伺ってくる。それに「なあに?」と行動を問うとゼノがおずおず、私に子どものようにお願いをした。

「や、やっぱりついてきてくれないか」
「嫌。叱られてきて」

肩を落としたゼノが大きいため息をついて嫌々研究室から出て行く後ろ姿が見送る。一緒に謝りになんて行ったら私までスタンリーにシメ上げられるに決まってる。そんなの絶対に嫌だ。
…それにしてもからかうつもりがとんでもないことになったな。あの人、私のために禁煙してくれるんだ。
その事実に耳に熱が走れば、動悸がうるさいほどに全身を叩く。言葉で伝えられるよりも深くて重い愛情を行動で示されるなんて思いもしなかった。…ああ、恋愛に浮かされている。ゼノの言うとおりだ。最近の私はリスクを度外視した行動ばかりをしているただの女になり下がってしまっている。
ああもう、作業に集中したいのに!

このあと、ずかずかと研究室に戻ってきたスタンリーに盛大にシメ上げられ「俺を騙すなんていい性格してんじゃん。副流煙についてはごめんな!気ぃつけんよ!」とアームロック…つまりは関節技を食らわされてしまった。ギブギブギブ!と悲鳴を上げる私なんてお構い無し。
まったく、私の健康に気を使えるなら自分の健康も鑑みてほしいものだ。しかしこんな悪態も関節を痛め付けられている今は彼には届かない。あとやっぱり禁煙を決意するほど愛した女に躊躇いなくプロレス技をかけるのはどうかと思う。

「…煙草減らすからさ、ちょっとだけ禁煙は待ってくんない?減らせたら褒めてよ」
「それはもちろん。あなたならできるわ、スタンリー」
「ああ、できるね」

関節技を仕掛けられたままじゃ感慨もなにもない会話だ。ただ、彼が述べた誓いに内心胸が弾んだ。あれだけ頑固だった彼がここまで譲歩して、本数を減らすと言っているのだ。これはもう、信じて禁煙プログラムでも組んであげなきゃね。
私は彼のDr.だもの。

「あ、そのかわりアンタも生活見直してもらうかんね。三食ちゃんと食って運動して寝てもらうから覚悟しな」

げえ!と声が上がりそうになるのを必死に飲み込んだ。彼が禁煙を決意したのに、人間としての最低限の生活をできないなんて言うわけにはいかない。
さて、私が折れるのが先かスタンリーが折れるのが先か。私たちのどたばたな日常はまだまだ続きそうだ。

公開日:2021年2月21日