#4 共謀シガレット

物事というのは、「やらかした」と思う頃にはもうとっくに遅かったりする。
例えば絶対に遅刻しちゃいけない大事な会議がある日に寝坊しちゃってベッドで呆然したりとか、書類を作り忘れてて締め切り当日に顔を青ざめさせながら必死にそれを書いたりとか。思い返せばいくらでもある。

さて、そんな「やらかした」経験を私は今、完全に更新した。
ジリリリリッとけたたましい警報音が研究室に大音量で響き渡って鼓膜に刺激を与える。そして恐ろしいことにこの警報音はこの居住区…城全体に響き渡っている。やばい、これは完全にやらかした。
爆発音と瞬く間に研究室を覆うガス。手を滑らせて落としたビーカーの割れる音に驚いて、私はそのガスを思い切り吸ってしまった。まずい、と反射的に窓を全開にし警報を切るために研究室を駆けずる私のなんと滑稽なことか。

そうして目の前のインシデントにできる限りの対応を完了させて研究室を飛び出ると、ああ、最悪だ、視界が歪んでいてもわかるほど綺麗な顔の男が血相を変えてこちらに向かっているのが見えた。ゲホゲホッと息が思うように吸えない苦しさと異物を吐き出そうと絶え間なく溢れる涙に酸素が足りていない脳が引き起こす頭痛。ボロボロの状態で、今から私はこちらに向かっているスタンリーに言い訳をしなきゃいけないらしい。

「なにがあった」

崩れた私の顔を少し顔を歪めながらそう現状を問うスタンリー。げほっ、と粘膜の違和感が拭えないままガラガラの声を絞り出す。

「ゼッ…ゴホゴホッ」

ゼノは外出中、あなたの目的は無事、と伝えようにも言葉が掠れて出てこない。会話にならないほどに咳を繰り返す私の肩をスタンリーが掴んで一方的に質問を投げた。

「人体に影響は」

ない、と首を横に振る。

「被害はアンタだけなんだな?」

こくこく、と縦に首を振る。ピリピリと痛む眼球を治そうと涙は止まらないし、鼻水もズルズルで汚い顔を晒してしまっている。「60秒待ってな」と言って研究室に飛び込んだスタンリーに心の中でごめんなさい…を連呼する他ない。
数秒経って研究室から出てきたスタンリーがドアに「立ち入り禁止」という紙を貼り付け、そのまま私をひょいっとあろうことか担ぎ上げて即歩で歩きだした。乱暴に担ぎ上げられているけれど、問題はそこじゃない。
私はこの世界で一番迷惑をかけてはならない人間の手を煩わせている。その事実が、なによりも痛かった。

「催涙ガスだな、目ぇこすんなよ」
「は゛い゛…」
「きったねぇ声。シャワー室まで運ぶからそこまで気張れ。洗い流したら食堂来い、インシデント報告してもらっから」
「す゛み゛ま゛せ゛ん゛………」

自分で作った催涙ガスの効果は覿面だ。我ながらとんでもないものを作ってしまったな、と目も鼻も喉も気持ち悪い。非致死性ガスとは言え、これを軍事目的で利用しはじめた奴はきっと人の心がない。
そんなことをスタンリーの肩に担がれながらボロボロいろんな穴から液体を出しながらぼんやり考える。やば、スタンリーの服に鼻水がつかないようにしなきゃ。ガスを洗い流したあとに入念に殺されかねない。

「さっさと洗い流してきな」

ぽーんっ!と服を着たままシャワールームに放り込まれて水を浴びせられる。そしてズカズカと出ていったスタンリーに聞こえないように「優しいのか優しくないのかわかんないぃ…」と泣き言を呟いた。いそいそとびちゃびちゃになった服を脱いで捨てる。顔に水を当ててゲホゲホッと汚い音を立てながら粘膜にはりついたガスの成分を洗い流す。
さて、食堂で行われるであろう尋問になんて言い訳をしよう。気が重くって仕方ない。いや、今回のは完全に私が悪いんだけど…。
あの冷たい瞳に睨まれることが確定している。それだけで、私の気が休まることはないのだ。ようやく違和感から解放された喉から一番に出てきたのは重い重いため息だった。

このあと、シャワーを浴び終えて体を拭いているとマヤが服を持って様子を見にきてくれた。「スタンリー怒ってたわよぉ~」という余計な情報付きで。

「ねえお願いが」
「嫌よぉ、あの状態のスタンリー、怖いんだもの」
「えーん…」
「あとで慰めてあげるから~」

なんて呑気な!私は叱られてるときに握れる手が欲しいだけなのに!
余計に重くなった気分に首を振ってマヤから受け取った服を着る。するとマヤから「がんばんなさいよ~」とまた、呑気な声が聞こえてきた。自分が蒔いた種だ。諦めよう、と髪を拭いながらマヤに背中を押されてシャワー室を出た。

食堂に寄るついでに鏡で顔を確認したが、まぁ酷い。目が真っ赤に腫れてしまっている。こんな状態でスタンリーのお叱りを受けるのか。
それにしてもちょっと唐辛子の辛味成分を抽出しすぎたな…。もちろん、催涙ガスなんて作ったことも浴びたこともなかったものだから加減なんてわからなかった。

少しずつ自分でも反省を繰り返しながら一歩ずつ食堂に向かう足の重いこと。体に重石がのし掛かってるんじゃないかと思うほどだ。このままバックレてしまいたいが、そんなことしたら確実に銃口がこちらに向く。
それに、今スタンリーは怒っているとは言え…身動きが取れなかった私を助けてくれたのだ。どれだけ叱られてもお礼を言わなきゃいけない。まさか助けてくれると思わなかったな…と彼の行動を振り返っているとあっという間に食堂についてしまった。
うう、やっぱり気が重い。

「スタンリー?」

そう彼の名前を口にしながら食堂のドアを開けると、食堂にいた人間の視線が一気に私に集まるのを感じた。そうだった、私、城のブザーを盛大に30秒ほど鳴らしちゃったんだった。うう、居心地が悪い…。
しかも運が悪いことに今は晩御飯の時間で人がとにかく多い。そんな食堂をすり抜けて、食堂の端でテーブル席を確保して無表情に煙草を吸っているスタンリーの元へ行かなきゃいけない。
公開処刑だ。そう肌で感じとって、ぐ、と拳を握った。

「ごめんなさい、お待たせしました…」
「ん、座んなよ」
「し、失礼します…」

あれ?声がそんなに冷たくない。なんなら関わりがなかった頃のスタンリーの返事のほうが冷たかった。そ、そんなに怒ってないんだろうか?なんて淡い期待を抱きながら椅子に腰かけるとスタンリーが煙草を灰皿に沈めた。

「で?なんで催涙ガスぶちまけたわけ?」

あっ気のせいだった怒ってる。目が私に言い訳をすることを許さない、と言わんばかりに視線をつき刺してくる。変に早くなる心臓に冷や汗が吹き出せば、指先が震えた。

「…まず…」
「うん」
「催涙ガスの調整をしてるときに、間違えて火をつけちゃって…それで爆発してガスが…」
「…怪我は」

幸いなことに五体満足です…と指先を見せる。正直かなーり危なかった。小規模な爆発とは言え、怪我がなかったのは本当に不幸中の幸いだった。
それに爆発音には耐えられた。あ、くる、と思ったしその間は息を止めていられた。そのあと、落としたビーカーと警報音に驚いて思い切りガスを吸い込んでしまったわけだ。考えれば考えるほど愚かだ。

「顔、すり傷入ってんぜ」
「えっ…あ、窓に顔ぶつけましたね…」

顔中痛すぎて気づかなかった。正直、すり傷跡なんかよりガスのほうがよっぽどヤバかった。軍には毎週催涙ガスを浴びる部署があると聞いたことがあるけど、絶対正気じゃない。

「あとで一応ゼノに見てもらえ」
「はい…」

冷静な声が私に淡々と降り注ぐ。目は相変わらず冷たいけれど声に凄みはない。これ、怒られてるんじゃなくて本当に尋問みたいだ。軍事部のインシデントになるんだし、スタンリーは司令官。部下のやらかしを冷静に聞いているだけなのかもしれない。
いや、それならゼノに聞いてもらいたいものだけど。そもそも催涙ガスだってゼノの差し金で作ってたんだし。

「なんで催涙ガス?いんねーだろ」
「ゼノがね、大規模演習したいって言い出して…」
「あンの馬鹿…」

軽く舌を打ったスタンリーにびくっと体が反応する。私に向けたものではないにしても、その隠しきれていない苛立ちにヒュッと息を飲み込んだ。こ、怖い。幼なじみの喧嘩にはぜひ巻き込まないでほしい。

「なんの演習だよ」
「研究室が襲われたときの実戦演習って言ってた。防災訓練みたいなものだって」
「防災訓練で催涙ガス使われてたまっか」

ゼノならやりかねねぇか、と呆れたようにスタンリーがぼやく。そう、あの男ならやりかねない。催涙ガスくらいなら簡単に作れるしいいよ作ろう、と私も作戦に乗ったことは墓場まで持っていこうと思う。

「ゼノはあとでデコピンだな」

さようなら、ゼノの頭蓋骨。
あの綺麗な丸いおでこも見納めか。

「ま、アンタが無事で良かったぜ」

ゼノのおでことのお別れ会をしていたらいきなり投げつけられた言葉にぱちぱちと瞼を動かしてしまう。そして浅く息を吸って、思わずスタンリーの顔を見た。
…び、びっくりした。スタンリーって私の腕が吹き飛んでいようが気にしないタイプだと思っていたのに。そういえば顔のすり傷を指摘されたっけ?そういうの気にするタイプじゃなさそうなのに。

「そ、そう…あの、スタンリー」
「なに?」
「さっきは助けてくれてありがとう」

おずおずとそう伝えると、スタンリーの瞳が少しだけ揺れた。そして「別に」と相変わらずそっけなく呟く。私にとってはとてもありがたい行為だったわけだが、スタンリーにとっては些細な行為だったのかもしれない。後腐れがなくてこちらとしても、やっぱりありがたい。

「よし、終わりだこの話は。飯食うぞ」
「えっ、一緒に?」
「嫌なら席外すけど」
「い、嫌じゃない、むしろご一緒して大丈夫?」

その問いに返事はない。無言で立ち上がったスタンリーが「待ってな」と指示してキッチンに向かうと程なくして二人分の夕食を持って戻ってきた。えっほんとにスタンリーとご飯食べるんですか?なんのために?
ことんと置かれた食事。今日はシチューとパン、焼いた肉、サラダとヨーグルト。ヨーグルトにはドライフルーツが混ざっていて美味しそうだ。

向かいに座ったスタンリーが静かに食事を始めたものだから私も夕食を口に運ぶ。緊張しすぎて味がしないものだと思っていたけれど、鼻にはシチューのいい匂いが届いて思わず頬が緩んだ。

「唐辛子以外の匂いだ…!」
「…アンタ、今日は災難だったな」
「おいしい、幸せ~!」

ぱくりぱくりと夕食を胃に納める私。数時間前は機能していなかった鼻も喉も温かい料理に徐々に本来の機能を取り戻しつつある。良かった、もう使い物にならなくなるかと思った。…非致死性だし後遺症も残らないものだけど、私も相当パニックになっていたらしい。

「演習で催涙ガス使うのはやめるように打診しとく」
「演習自体いんねぇよ、俺が守ってやるからさ」
「あはは、ゼノに伝えておくね」
「アンタに言ってんだけど?」

突然の爆弾発言に危うくスプーンを落としてしまうところだった。催涙ガスすら防げない女になんてものを投げつけてくるんだ、この男は。
…いや、今気づいた。私がいなくなったら煙草の供給に困るから私に甘いんだ。この人。それなら今日のスタンリーの行動もすべて理解できる。ふふ、私のためではなく煙草のため。スタンリーらしくて笑えてしまう。

「また煙草、たくさん作るね」

私のご機嫌取りなんかしなくてもいい。動機はどうであれ感謝はしてるから煙草くらい用意させてね、と返事をする。するとスタンリーがパンをかじりながら私の言葉に応えた。

「あー…まだ煙草あっし今日その話はしなくていい」

共通の話題をいきなり取り上げられて早速ピンチだ。退路がないこの状況で、なんてことを言い出すんだと思ったけれどスタンリーは無言で食事をするだけ。どう返事をするのが正解か、今からひとりぐるぐると考えなくてはいけないらしい。

…ただ、私たちから煙草の話題を奪ったらなにが残るの?という言葉は飲み込んだ。

公開日:2021年1月31日