お触り禁止法令発令中! 後編

鳥の囀ずりに重たいまぶたをゆっくり開く。もう朝か、と欠伸をしながらぱちぱちとまぶたを上下させてもぞりと体を左に傾けてぼんやりと何もない半分余ったスペースを眺めつつ体を丸めた。
スタンに三行半…もとい、お触り禁止令を突きつけてから今日で五回目の起床を迎えた。はあ、と重たいため息と共に体を起こした私は無意識に隣に温もりを探してしまったことに寝起きにも関わらず頭痛を覚える。
自分で突きつけた一週間という期限だ、彼が隣で眠っていなくっても存外、寂しいという感情は沸いてこない。しかし、五日前にイレギュラーな大喧嘩をしてしまっていたものだからその事実が私を苛むのだ。

…三日で音を上げて、すり寄ってくるものだと思っていた。
ハニー、限界だ俺が悪かった。そう言って私の髪を、頬を撫でて丸め込んでくる。そう私は、彼の愛情を過信していたのである。呆れるほど早く許しを乞うものだとー…いや、もうこのことについて考えるのはやめよう。精神衛生上よくない。

もうひとつ欠伸をしてベッドから脱出した私は服を着替えようとするりと着ていた服を脱ぐ。ふと半裸のまま部屋に置いてある鏡を見ると、全身ひっきりなしについていたキスマークが所々薄くなっていることに気づいた。あと不思議なことに最近はとても体の調子が良い。…彼との夜の行為は、少しだけ体に負担が大きかったのかもしれない。
こんなことスタンにバレたら朝まで離して貰えなさそうだ、と思いつつ、ふと「あっ喧嘩中だった…」と思考が振り出しに戻るのだ。やれやれ。

「君たち、いつまで喧嘩し続けるつもりだい?」

カチャリとガラスとゼノの爪がぶつかる音。薬品を振り状態を見ながら私にそう問う彼の声色は相変わらず呆れ返っている。
そんなの私が知りたい、なんて言葉を飲み込んでため息で返事した私をようやく薬品から目を離したゼノの瞳がぱちりと捉えた。うぐ、作業に支障は出ていないはずだし、これ以上の追及からはぜひ逃してもらえると有難いのだけれど…。

「君もスタンも限界に見えるが」
「…そう?案外離れていても平気なものよ」
「初めての大喧嘩で摩耗していると言っているんだ」

冷たい女だと突きつけてもらったほうが楽だった。実際に彼が傍にいないことは存外、存外平気なのだ。しかし、ゼノが言った通りでスタンと喧嘩したまま離れてしまったことが胸を引っ掛かり続けていた。それこそスタンが言った言葉「hickeyくらいで」こんな大喧嘩に発展するなんて、神様だって想像していなかったろう。

「少なくともスタンは君と会話すらできなくて発狂寸前だよ」
「大袈裟な…」
「なら様子を見てくるといい。眼光は鋭いしタバコの量なんて1.5倍に増えている。」
「あれ以上タバコの量を増やせると思わなかったわ」

まったく、仕方ない人。なんて責任をすべてスタンに押し付けながら、がたりと席を立つ私をゼノが長い爪でくいくいっと「おいで」とジェスチャーをする。指示通りにゼノに近寄ると、小さい子どもを扱うように微笑んで髪を撫でた。そして頬に唇を落とす。

「good luck」

ああ、いよいよ逃げられない。

ヒールをカツンと鳴らしながら彼を探す。さて、彼が今どこにいるか。もう知り合って数年が経っているものの、彼の居場所を当てられるほどエスパーではない。彼のいそうな場所を探して小旅行をしているとすれ違う人すべてに避けられているように感じる。スタンの部下なんて目すら合わせてくれない。
…あいつ、どんな指示出してんのよ。

「ねえ」
「ヒッ…は、はい!」

まだ若い軍人さんに声をかけると怯えられ、一定の距離をとられてしまった。声が震えていて可哀想でしかたない。思いの外私たちの喧嘩が周りに迷惑をかけていることを知った今、早急にスタンを探し出さなくては、と頭が重くなる。

「隊長さんどこにいるか知らない?」
「隊長なら食堂に…な、仲直りされるんですか?」
「そうしたほうが良さそうね」

良かった…と魂から飛び出ていそうな言葉が聞こえて苦笑いをひとつ。ごめんなさいね、と謝罪を口にしながら手を振り食堂に向かうため踵を返した。まったく、本当に迷惑な人だ。

食堂の扉を開いての第一印象は「とにかく煙たい」だった。煙の発信源はもちろん不機嫌にタバコを吸っては吐いて時間を浪費している恋人だ。いつから、何本のタバコを消費しているのかはわからないが彼の眼前の灰皿にはおびただしい数の吸殻が沈んでいる。
ゼノが苦言を呈していたタバコの量1.5倍はあながち間違いではないらしい。

ふう、とため息を吐いて食堂の窓を開けると新鮮な空気が舞い込んできた。…さて、どうやって声をかけようか。正直様子を見るだけに留めようと思っていたのだけれど、今日仲直りしてしまわないとあまりにも彼の部下が不憫だ。

「スタン」

不機嫌そうにタバコを吸う彼にとにかく声をかけようと久々に彼の名前を呼ぶ。するとスタンは私に気づいていなかったのか顔を上げて私の顔を目をまんまるにして見るのだ。なんて間抜けな顔、と思っていたら珍しく動揺したのであろうスタンは手からタバコをするりと落としてしまっていた。それを空中でキャッチしようとして、彼らしくもない、火がついた部分を握ってしまい「あっづ!」と声を上げる。

「大丈夫?!」
「あー…名前?」
「救急箱取ってくるね、飲料水で手を冷やしてて!」

そう言って慌てて救急箱を取りに研究室に走ろうとした瞬間、ぱしりと左手で手首を捕まれてしまった。その彼の行動に対して、反射的にスタンの顔を見る。そうしたら、彼があまりにも泣きそうな顔をしていたものだから心底驚いた。

「…スタン?」
「行かないでくれ」
「で、でも火傷…」
「こんくらいヘーキだから」

彼の弱々しい姿とぐずぐずの覇気のない声に言葉を失う。いつも気取った姿しか見せないスタンが私にすがるように懇願に似た感情をぶつけてきている。
その表情や言葉をぐっと飲み込んで「見せて」と冷静に彼の火傷を負ったであろう右手をパシッと捕まえる。タバコは加熱時最高九百度を超える凶器だ。それを素手で掴むなんて!と叱責をする前に患部を冷やすために彼の手首を掴んだままキッチンの流し台へ向かう。せめて冷やさないと、と足早に口にするが返事はない。しまった、思いの外重症だ。

「スタン、とにかく火傷の処置させてね。」

そう言い聞かせるように言葉を投げ掛けるとスタンが大きく息を吸ったのが聞こえた。そしていつもの声色で会話を拾った彼に、少しだけ胸を撫で下ろす。

「心配性だなハニー、こんくらいなら無傷みたいなもんだぜ?」
「傷口から感染症のリスクがあるのよ」

ちらりとスタンの顔を見ると穏やかな表情で私のことをじい、と見つめている。先ほどまでの弱々しい彼はもういないように見えるが、まだ瞳が揺れていた。
とにかく処置が先だと浄水済の水が入ったボトルを手に取り彼の手に水をかける。「つめてっ」と彼の弱音が聞こえたが知らんぷりし一定量の水を継続的に流し火傷を冷やす。受傷部位を冷やしながら診察するが浅達性Ⅱ度程度の軽傷に見える。良かった、痛みはあるけど傷はきっと残らない。

「…あなたがあんなに動揺すると思わなかった。」
「そう思うならお触り禁止令解除してくんない?今すぐアンタのその可愛い頬にキスがしたい。」

じい、と長いまつげが私を捉える。ぱちりと瞳が揺れるたびに惹き込まれてやまないそれに心臓がアラートを上げた。ああ、駄目だ流されてしまいたい。けれどどうしても首元に残っているキスマークがまだ私の理性を引き留める。

yesが言えないままボトルが空になり、ぽたぽたと心許ない水滴が彼の手を濡らす頃に食堂に置いてある救急箱の存在を思い出す。背伸びをしてキッチンの収納を覗くと記憶通り、救急箱が見えた。スタンが火傷をしたのを目の当たりにして冷静さを欠いてすっかりこの存在を忘れてしまっていた。
火傷時の感染症予防には抗生物質軟膏があれば十分に対応できる。そして以前、実験中に盛大に転んで膝を擦りむいた愚かな女の傷を治すべくゼノが作ってくれていた薬が運良く存在した。
その薬を塗り込み、救急箱から包帯を取り出す。それをすっかり慣れてしまった手つきでくるくると巻き付けて赤く腫れていた火傷を覆い隠した。

「うちの軍にいた軍医より手際がいいな」
「からかわないで。」
「マジだぜ?あいつらツバつけときゃ治るって言い張るヤブ医者ばっかだ」
「それ、いっつも言うよね」

私は医者ではない。医療の知識も少し齧った程度で自信もない。だけれどこんな世界だ、誰が治療したっておんなじだと彼はいつも私に言ってくれる。
それにいつも通りクスクスと笑っているとスタンが「あー、」と気まずそうに何か言いたげに私を見つめるのだ。ああ、これはお触り禁止令が効いてるな。いつもなら髪を撫でられているところだろう。

「Dr.?ついでに診察して欲しいんだが」
「なあに、patient?私に治せる病気ならいいんだけれど」
「名前にしか治せないから困ってる。」
「あら、どんな病かしら。」
「…アンタに触れられなくて、苦しい。」

彼の透き通った双眸が私を離さない。すがるようなそれに見つめられてぎゅう、と胸が締め付けられる。この瞳に既視感を覚えて、なんだったかと考える前に「捨てられた子犬」というワードが脳裏を過った。その庇護欲を掻き立てられる姿にう、と息を飲む。

「名前は?なあ、俺だけ?」

包帯が巻かれた手がするりと私の指を絡めとる。にぎ、と握られた手をスタンの頬に擦り寄せられて、手の甲が彼の体温を心地よく受け止めた。久々に触れた彼の大きくてゴツゴツとした男性らしい手にドキリと胸が高鳴って仕方がない。

「わ、わたし、は」
「うん」
「…あなたと喧嘩したまま、離れたのが苦しくて」
「うん、おんなじ。」
「だから仲直りがしたい」

そう言って彼の胸にこつんと頭を預けるとスタンの大きな手のひらが髪を撫でる。私が嫌がらない様子を見て気分を良くしたのだろう、両手で頬を包んで顔をぐいっと上に向けられた。
先ほどから顔が熱くてたまらない。その熱っぽい表情をまじまじと見られ、余計に顔に血液が集まるのを感じる。それを誤魔化すように彼に言葉を投げてみるがきっと無意味だろう。

「…苦しいの治った?」
「まだ足りないね」

スタンの唇がおでこにちゅっと落ちる。瞼や頬、鼻の先に次々と唇を落とされ、それがなんだかくすぐったくて逃げるようにじわりじわりと後退してしまう。それを決して逃がしてはくれないスタンに腰をぐいっと引き寄せられそのままリップ音を立てながら唇を奪われた。
ふ、と溢れた息と少し隙間をあけた唇を彼は逃さない。すぐに舌をねじ込まれ、私の舌を絡め取った。息苦しくてトントンと彼の肩や胸を叩くが離してもらえない。少ない酸素に思考を徐々に奪われ、熱が上がった。

「スタン待って、」
「待てない」

そう言って頬にキスを数回落としながら私の首に巻いてある包帯をしゅるりと器用に剥ぐ。あ、まずい、と思う頃にはようやく薄くなっていた痕に上書きするようにスタンの唇が首もとに噛みつく。唇だけならまだしも、がり、と歯を軽く突き立てられ思わず声を上げてしまう。

「や、やだ、」
「悪い、余裕ない。」

そう言って別の場所にも痕を残そうと、喉元に噛みつこうとした瞬間を捉える。彼を止めようと思い切り彼の頬に手のひらをぶつけるとパシン!と想定よりも遥かに大きい音がした。
うわ、やば、やりすぎた。

「………ハニー?」
「し、舌とか噛んでない?大丈夫?」
「ビンタした奴のセリフとは思えないね」

はぁああ、と大きくため息をつかれてしまったがそのままぎゅう、と抱き締められる。普段よりも力強いそれに彼の五日間の葛藤が見えた。かなり意地を張っていたことも伺えてしまってどうしようもない。

「仲直りしたらまた触んなとか言う?」
「…言わないわよ」
「あー、クソ、とっとと謝っときゃ良かった」

むすりと声に不満を含めながらそうぼやくスタン。思わず笑うと「笑い事じゃないかんね?」と抗議の声が上がった。

「でもまた見えるとこに痕つけたでしょ。それに関してはまだ許してないですからね」
「諦めて」
「バカ言わないでよ」

彼の腕の中で流されない意思を伝えると、また彼が私を抱き締める力を強める。これ以上力を強められたら物理的な苦しさに苛まれることになりそうだ。

「…いっつも余裕ねーんだって」
「…へっ?」

想定外の言葉にマヌケな声を上げてしまう。ちらりと見た彼の顔は耳まで赤く、それに私の心臓も跳ね上がってしまった。

「それにアンタに俺の痕がついてると、安心する。」

するりと先ほど上書きされたキスマークを彼の長い指がなぞった。びくりと体を震わせると「ダメ?」と耳に唇を落とされる。初めて聞いた彼の本音に息を飲んでしまった。そんな、ずるいじゃないと言葉にしようにも出てこなくってへなへなと彼に体を預けて脱力してしまう。

「…ダメじゃない」

彼の胸に顔を埋めながらそう呟くとスタンの唇が上機嫌に鳴った。ああ、きっと彼は今唇の端を上げてまたひとつ私を手に入れたことにほくそ笑んでいるのだろう。
早急に首元を隠す服かアクセサリーを設えよう、一度許してしまったのだ、痕をつけないことより隠すことに労力を割いたほうがきっと有意義だ。そんな可愛げもないことを考えながら、喉元に落ちたスタンの唇を無抵抗にただただ受け入れた。

公開日:2020年10月17日