朝焼けエスケープ

「見てゼノ、外明るい…」

あまり回っていない頭と重すぎる瞼、息をすることすら億劫な私たちに作業時間二十時間オーバーを伝える空。鳥が朝を伝えるためにさえずればゼノが大きく息を吐く。

「つい時間を忘れてしまっていたね。」
「このまま続けて夜眠る?それとも今から仮眠を取る?」
「あまり寝てないとスタンに叱られるよ。」

ゼノが口にした恋人の名前に思わず「ぐぅ」と唸ってしまう。そうだ徹夜したなんて彼に知られたら頬をつねられて寝ることを強要されてしまう!まだ作業記録を書かなくてはならない私にとってそれは望ましくない。
ゼノに目の下を親指でツゥーとなぞられ隈を指摘されるといよいよ恋人…スタンの反応が怖い。このあいだ隈を作った顔を見せたら三日ほど部屋に軟禁され睡眠を指示、任されていた薬品が納期に間に合わなかった。このなにもなくなった世界でその三日がどれだけ貴重か彼もわかっているはずなのに。

「スタンは過保護すぎるのよ。」
「それだけ君が大事だってことだよ。」

それを言われてしまっては返す言葉がない。彼に見つかる前に部屋に戻りましょうと提案して作業記録するために紙とペンを机に出すとゼノから「君って人は…」と呆れたような言葉が発せられた。

「起きてからでもいいだろう。」
「そういう怠惰が重なって大きな過失になるのよ。」

元の世界ではそれが横行していたけれど。そう可愛げもなく口にするとゼノがため息。融通の効かない助手で悪かったね、ただせっかく好きに作業をしてもなんのしがらみもない世界になったのだから少しは意思を尊重していただきたい。

「ゼノは先に休んでて。」
「スタンに見つかったら言い訳をする人がいなくなってしまうよ。」
「見つかる前に私も寝ちゃうから。」

それにまだ早朝、さすがにスタンもこんな時間に研究室には訪れないだろう。裏の抜け道を使えば例え彼が起きていたとしても見つからずに部屋に向かうことができ、何事もなかったかのようにベッドに潜りこめる。そうしたらあとはあまり眠れなかっただけだと主張すればいい。
ペンをくるりと回して大丈夫だよと笑うと「仕方ない人だ」とぼやかれてしまった。しかしながらゼノも体力の限界だったのだろう、大人しく部屋から出ようと扉に手をかけた。

「くれぐれも早く眠るように。」

そうわざわざ長い人差し指を上に向けて釘を差しふらりと研究室から出て行く。研究をしている間は時間も疲れも忘れてしまうけれど、作業明けの明るい空を見てしまえば一気に現実に引き戻される。そして残るのは眠気と疲れ、加えて稀に加齢を実感するのだ。…私ももう若くないな。
ため息をひとつだけ吐いてぐるりと右腕を回し、ぐぐぐと背中を伸ばす。両手でぱちんっと頬を叩いて「よし!」と気合いを入れると目の前から紙が目にも留まらぬ早さで消えた。
…ああ、最悪だ。振り向いてはいけない、強いて言うならば気づかないふりをして部屋から出て行くのが一番生存率が高い。いや、結局捕まってしまうだろうけど。隠れる気も気配を消す気もない彼がタバコに火をつけた音、そして煙をアピールするようにわざわざ大きく息を吐いた。

「ずいぶんと早起きだなハニー」
「あ、あなたこそ早起きね。おはようダーリン、いい朝だわ。」

ほらいい天気、と窓を指差すとどうでもいいと言わんばかりに先ほど私から奪い取った紙を顔にばちんっと押し付けてくる。そして矢継ぎ早にこう言うのだ。

「な・ん・で!こんな時間に作業記録書いてんだよ、なあ!」
「神様のいたずら!」
「ヘーェ神様がどんないたずらをアンタに?」
「スタン落ち着いて、私も驚いてるの。だって先ほどまでお昼だったのに気づいたら朝よ?ちょっとゼノと今後の展望や作るものの設計検討をしていただけでそんなに時間が経つかしら?でもね、気づいたら」
「アンタが徹夜明けで頭回っていないことはわかったぜ」

顔をじとりと見られて思わずサッと顔を反らす。しまった、先ほどゼノに隈を指摘されているからこのままだとまたスタンに軟禁されてしまう。三日も私がいなくなればゼノの独壇場、好き勝手に文明を作られてしまう!それだけは防ぎたい。しかし咄嗟の嘘も下手くそな私が隈の言い訳なんて思い付くはずがない。ましてや徹夜明け、先ほどスタンに言われた通りに頭も回っていない。

「キュートな顔が台無しだ。」
「研究職なんてみんなこんな顔してる。」
「今は違うだろ、俺のかわいいハニーが疲れた顔してんの嫌だって言わなかったか?」

それを聞くのは八度目だ。毎度「わかった、気を付ける」と体よく返事をしているものだからそろそろそれも有効ではない。今日のところは素直に謝っておくか。こんなに心配してくれるなんて愛されている証拠じゃないか。

「ごめんねスタン。これが終わったらすぐ寝るから。」

そう言って作業記録の紙を見せる。これだけは終わらせておかないと目覚めた時にスムーズに次の作業に入れない。最後まで書かせて、という私のお願いにため息ひとつで返事をして隣の椅子にずかりと座り込む。

「はやく終わらせな」
「ええ!ありがとうスタン、愛してるわ!」

スタンの頬にキスをしてペンを握る。さて、昨晩からの議論をそれなりにまとめなくては。次は飛行機を作るなんて言っていたけれどどれだけ期間が必要か相談しないとなぁ、うーん次の議題にするか。

「アンタ字綺麗だよな」
「うん」
「ゼノはこういうの書かねぇの?」
「うん」
「…今日の昼食はなにがいい?」
「うん」

重たい瞼を擦りながら必死に頭を動かして早く書き終えようとしているのにスタンがひたすらに話しかけてくるものだから返事がおざなりになってしまう。が、「スタンうるさい」なんて言ったら強制終了、すぐさまベッドまで担ぎ込まれてしまうだろう。返事してるだけ偉いぞ私、彼は無視すると後々面倒だからね!

「今日俺、外に見回り行くんだけど」
「うん」
「いってらっしゃいとかもナシ?」
「うん」

ちょっと本当にうるさいなスタン、あとで船を漕ぎながら聞くから今は黙っててほしい。いってらっしゃいのキスなら寝る直前にしてあげるから!
ああもう、早く仕上げるかと意識を九割書き物に集中させる。そもそも早く仕上げて部屋まで軽い会話をしたほうが有意義じゃないか。なんでこう、思考の邪魔をしてくるかな。

「俺のこと好き?」
「うん」
「………結婚すっか」
「うん」

…うん?
必死に動かしていたペンがぴたりと止まる。今、とんでもないことを言われたような?
…結婚?

「け、結婚って言った?」
「聞いてなかったのかよ」
「わ、私とスタンが?」
「他に誰がいんよ」

待って。待って?いやいやいや、確かに私とスタンは交際して数年、いい大人だしそろそろ…なんて雰囲気も石化前はあった。そう、石化前は。しかし今はなにもない石の世界、今日も今日とて文明を、武力を、生活をと奔走している私たちにとって結婚なんて縁遠いものになっていた。
そもそもスタンと毎日顔を合わせて会話できるだけで幸せだったのだ。いつの間にかそれが一番の幸せになって、彼と生きるのが当たり前になってしまっていた。そうか、彼はまだ私との「結婚」という形式を諦めてはいなかったんだなぁ。

「なに?嫌?」
「ち、ちが…嬉しいの。嬉しいんだけど…」
「なによ?」
「メリットがない。」
「サラリと最低なこと言うね」

一瞬で不機嫌になった彼に慌てて訂正を入れる。確かに言葉だけじゃ悪女みたいなセリフだった、反省。言葉が足りないのはいつものことだけど今回は人生のお話だ、慎重に行きたい。

「石になる前はね、一日でも早くスタンと結婚して毎日一緒に過ごせる時間が欲しかったの」
「それは悪かったね、これでも指輪は用意してたんだぜ?」
「お互い忙しかったもの、仕方ないでしょ。で、こんな世界になっちゃって謀らずもずっと一緒にいられるようになって…」

満足しちゃってるというか、と伝えると本日一番のため息を吐かれてしまった。だって毎日挨拶ができるこの世界を誰よりも愛してしまっているんだもの、とにかくそんなことを考えてしまう可愛くないハニーでごめんなさい!

「俺はさ。」
「うん。」
「毎日名前と顔合わせれるの、すごい幸せだし守ってやりたいとも思ってる。」
「…そう、ありがとう。」
「でも名前は毎日毎日口開けば科学、食事も睡眠も中途半端に科学科学科学…」
「うっ」
「科学が恋人なん?ちげえだろ?」

毎日会えはしなかったが、石化前のほうがよっぽどカップルらしかったぜと言われてしまって撃沈。彼から不満がこんなにも出るとは、本格的に反省だ。ゼノで慣れてると思っていたけれどそんなことはないらしい。確かに言われてみれば毎日メッセージをやりとりしていた頃のほうがお互いのことを良く知っていたかも。
うう、目の前の「文明復興」という楽しい出来事に毎日が目まぐるしくって彼を放置してきたここ数年の記憶が痛い。ずっと支えてくれていた彼に、私は科学で答えていたつもりだったけれど不器用な私が伝えられることなんて何一つなかったのだ。
そしてしびれを切らして「結婚」という最終手段を持ち出した、と。

「とんでもない彼女でごめんなさい…」
「ホント、勘弁してくれよ」

これでもだいぶ待ったんだぜと顔に触れる。顎を彼の指で持ち上げられ、目を閉じると柔らかい唇が触れる。そして髪に触れ、まっすぐ私を見据えて。

「俺の傍にいて、お姫様」

こんなプロポーズを受けてしまったら答えはイエス以外用意できない。私の髪に触れる指を握り指を絡めて彼の瞳をじ、と見る。長いまつげにアッシュブルーの瞳は私を映していて照れてしまう。ああ、私はこの人と一生を添い遂げるのだ。

「私もあなたの傍にいたい。」

その言葉を口にした瞬間、立ち上がったスタンにハグをされ抱き上げられる。そのままグルリと一周回ると耳元で「やーっと俺のモンになったな、アンタ」と言葉が詰まってしまいそうな一言を言われてしまった。それは後々挽回するから今は前借りで許してほしい。

「めでたいね」
「うん、めでたいね。」

座った彼の膝に乗せられ向かい合ったまま笑い合うと流れるように唇が重なった。正直なにも実感がないけれどそれは追々…。

「待って」
「なんだよハニー」
「…この世界における結婚の定義ってなに…?」
「…その話、もしかして長くなる?」

呆れたように眉をぴくりと動かすスタンにだって!と本日一番の声が出た。さすがにこれは大問題だ!どうにかしなくては!

「戸籍もないし名前だってファーストネーム以外いらないし何より一緒に住んでるじゃない?なにを持って結婚とするの?」
「わーった、式だ。結婚式すんぞ。それで実感できんだろ」
「そんな余裕があるならあなたの飛行機を作るわ!」
「お、その飛行機でフライトハネムーンとかどうよ?」
「残念ね、原始的な飛行機になるから一人乗りよ。というか戦闘機になる予定だし。」

その他にも、とペラリペラリと定義に関する疑問を口にして頭を抱えて、スタンの意見を求める。しかしタバコを口にして呆れたように私を眺めている彼の口は開かない。しかたないので一人で問題を列挙していくとようやくスタンがタバコを口から離し、煙を吐き出しながら重たい口を開いた。

「俺は名前さえいれば成立すると思ってっけど?」

そ、その口説き文句はずるいじゃない!
長いまつげがぱちりとまばたきをしながらも私を捉えて離さない。その瞳が「ごちゃごちゃ言ってないで黙って受け入れな」と語っている。

「で、でも…」

まだもごもごと反論しようとしたが頭が重くて回らない。そもそもこんな話、徹夜明けにするものではないのでは?いや徹夜したのもそもそも科学に浮気し続けたのも私が悪いんだけれど!

「…だめ、頭回らないから寝るわ。」
「こんなこと言いたかねぇがアンタ、俺以外とぜってーに結婚できねーかんね。」

タバコを灰皿に押し付けてよ、と私を軽々と抱き上げる。突然のお姫様抱っこに「わ、」と小さく声をあげるとおでこに軽くキス。

「部屋まで連れてってやんよ」

なんだか上機嫌な彼にぐうの音も出ない。実は部屋に戻ってから作業記録の続きを、なんて考えていたけれど叶わなそうだ。彼に運ばれながらも彼の腕の中が心地良くって、とっくに限界を迎えていた思考がうつらうつらと瞼を閉じようとする。
さすがに今から一日が始まる彼に「見回り行ってらっしゃい」「気をつけてね」くらいは伝えたいのでぱちぱちと瞼を動かして眠気に耐える。がんばれ、私。
そんな私を見て豪快に笑いながら「かわいい」と瞼に唇をくれるスタン。ああ、幸せすぎて溶けてしまいそうだ。

「なあ」
「なあに、スタン?」
「結婚の定義だっけ?気になるなら名前が勝手に決めりゃいいよ。」
「ふふっ、なにそれ。自分のことだよ?」
「構わないさ。ぜーんぶ叶えてやんよ。」

自分の足で向かうよりも早く部屋についてしまって、優しくベッドに転がされる。うう、横になってしまうと強烈な睡魔に勝てそうもない。

「隈が消えたらまた話聞いてやるから、今はおやすみ俺のお姫様。」

絡んだスタンの指をぎゅ、と握り朧気に「見回り気をつけてね」と口を動かしてみたが言葉になっただろうか?ただ、むにゅりと動いた唇に柔らかいものが触れた記憶を夢でも見ることができたなら、と欲張りに願いながらゆるやかに意識を手放した。

公開日:2020年9月8日