とある地獄のプロローグ

非常にまずい、やってしまった。退路もないし、回避方法も見当たらない。私の部屋で不機嫌そうにタバコを吸い、煙を吐き出しながらスマホをいじっている彼氏になんと声をかければいいのか、かれこれ十分ほど頭を抱えているがまったく正解が見つからない。そりゃそうだ、この状況を作り出してしまったのはきっと紛れもなく私なのだから。
そもそもなぜ、数ヶ月ぶりに会った愛しいダーリンが私に対して無言の抗議を行っているのか。それすらわからない私に、一体なにができようか。

私たちはいわゆる遠距離恋愛カップルだ。いや、少しだけ訂正しよう。彼の常駐駐屯地はこの家の近くにあり距離は近い。それをなぜ遠距離と表現するのか、と問われれば答えは簡単だ。彼が滅多にそこから出てこれないからである。
毎日連絡をとっているものの、次いつ会える?はもはや禁句で文字にするだけ虚しいものだ。だからこそ、彼が私の部屋にいることは手を叩いて抱き合って喜び合うのが当たり前だったのだけれど…。

そもそも今日は会社の同僚との食事会があって、スタンが部屋に来る予定ではなかったはず。もしスタンが来るならば一分一秒が惜しくって同僚に断りを入れて飛んで帰って来ていただろう。
だから部屋帰って来た瞬間の明かりがついている部屋と確かなスタンのタバコの匂いに驚いた。そして「うちに上がるときは靴を脱いで!原則スリッパ!」と口うるさく言いつけていたのをきちんと守った証拠である大きい革靴と、彼専用のスリッパが消失しているのを確認。
彼がいる!と急いでリビングに飛び込んで「ただいまダーリン!おかえりなさい!」とベロベロに酔った勢いで意味のわからない言葉を発し、彼に抱きつこうとしたのだ。いつもなら「遅かったなハニー、待ちくたびれたぜ」と抱きしめてキスをくれる。それを完全に期待していた。
そうしたら、ソファーに座ったままの彼がちらりともこちらを見ずにスマホをいじり続けている姿が視界に飛び込んできたものだから、ワイン三本分の酔いが一気に醒めた。なんならワインの瓶で後頭部を殴られたくらいの衝撃だったので酔いが醒めないほうがおかしいくらいだった。そして、そこから十分ほどの膠着状態が続いている。

そもそも、私が約束をすっぽかしたのか?という疑念が沸く。私が彼と会える時間の記憶をすっぽり消失するわけがない。と、なると彼はサプライズかなにかでうちに来たに違いない。それならばどれだけ遅く帰っても文句を言われる筋合いはない。しかしながら私が最後にスマホを見たのは確か五時間以上前。その間にスタンが連絡をくれていたら圧倒的に私が悪い。うーん、スマホを見る猶予が欲しい。が、この煙たい空間で重い空気を不機嫌に出しているスタンがそれを許してはくれない。
または、酔って帰って来たことに腹を…いや、それはないな。灰皿に沈んでいるタバコの量が桁違いだ。これは私が帰宅する前から私に腹を立てていた証拠だろう。ということは問題は私の酒癖の悪さでは、ない。

これはもう、本人に問うしかないだろう。スタンも悪魔ではないし、スタンは私を愛している。愛しい恋人にうるうる顔で罪を聞かせてと言われれば愛しさ溢れて思わず罪状を口にしてしまうはずだ!ちなみにこの間の喧嘩もそれで解決した実績がある。いける!
うるるっと瞳に涙を少しだけためてスタンの膝の上に乗り、じいっとスタンの顔を見るとスタンの瞳が若干揺れる。あれっこの目は「こいつこの期に及んで」と言わんばかりに私を睨んでない?
一瞬その瞳に怯むがそんな状況でもない。ええい、私だって引き下がれないんだ、やってやる!

「スタン、仲直りしたいから私の悪いところ教えて…?」

至近距離でそう懇願。する、と頬を撫でるが彼はぴくりとも動かず、なんなら膝に乗っている私を無視してスマホを再びいじりはじめた。
はい、無視いただきました。付き合って以来初めてです。
ショックすぎてワインを吐きそうだ。数ヶ月ぶりに会った恋人にこんな扱いを…いや、これはつまり私が完全に彼を怒らせている。
いや、理由が本当にわからない。こんな精神的にキツい状況もそうそうないし、本当に涙が出てきた。うう、嘘泣きでスタンを揺さぶろうとしてごめんなさい…。

「スタン、スタン…スマホを見てもいいですか…」
「…いーよ」

彼のシャツにすがりつきながらそう懇願すると不機嫌な声が頭上から降ってくる。ごそ、と自分のポケットを探りスマホを探すが見つからず、バッグの中に入れっぱなしの事実に気づく。スマホない…と呟くとパッとスタンが自分のスマホを掲げてくれた。そこには数十件の私の安否を心配するメッセージの羅列。きっと一番上には今日の予定を確認する言葉があるのだろうが、それはずっと上にありそうだ。私がワインをビンごと飲んでいる間、ずっと彼は私を心配していたのだ。

「さすがに返事はしてくれ」
「ごめんなさい…」

つまりこの灰皿のタバコのおびただしい量は私を心配しての、落ち着かない頭を冷静にさせるために必要なものだったらしい。よ、良くはないけど良かった!嫌われたかと思った!

「で、俺が不機嫌な理由もいっこあんだけど」
「え゛」

もういっこ?なに?もうわっかんないけれど?!
ううん?!と首を捻るとスタンが「あーあ、俺ばっかアンタのこと愛してんだな」「せっかく無理して会いに来たのによ」「ショックだわー」と矢継ぎ早に私を責めながら煙を吐く。私も愛してるから!と叫ぶが聞こえないと言わんばかりに耳を塞ぐスタン。

「ちょっと時間ちょーだい…」
「いいよ」

先ほどよりは柔らかい声でそう私に許可をくれる。うーん…とスタンの胸板に額を当てながら悩むこと数十秒。スタンが無理して会いに来た、ということは今日じゃないと駄目だったということだから…。
あれ?待って。もしかして…と時計を見ると確かに記憶に刻まれている日付。しまった!今日は、今日こそは!

「付き合って三周年の記念日!」
「そーだよ!」

アンタが決めた記念日だろ、忘れっかフツー?!と叫ばれ、胸元に薔薇の花束を押し付けられる。綺麗な花束を貰ったことや記念日を覚えてくれていた喜びを上回る罪悪感に思わず「ごめんなさい!!」と叫んでしまう。両肩を彼の大きい手が掴み、軽く揺さぶりながら「ほんっとに勘弁してくれ、いろいろ」と少しだけ優しく呟くのだ。
つまり、私は付き合って三年の記念日に彼氏からのメッセージをすべて無視して遊び歩き、あまつさえその記念日すら忘れていたやばい女ということになる。そりゃ誰でも怒る、というかよく部屋に居てくれたものだ!

「スタン、愛してるわ」
「俺もだけどよ」

ちらり、と時計を確認するスタンを見て首をかしげる。スタンと同じように時計見ると、日付が変わってしまっていた。み、短い記念日だったと怒られてしまうだろうか…?

「…ハァ、こりゃクリスマスまでオアズケだな」
「なにが?」
「プロポーズ」

え゛っ?!と短く驚きを上げると「アンタが悪いんだからせいぜい反省するこったな」と悪態と共に唇が降ってきた。
斯くして、私は彼からの最大の愛を受け取り損ねたのであった。

公開日:2020年8月21日