さらば愛しの忠誠心

じとりと肌にまとわりつく熱気とそれにより溢れた汗が首筋を伝う。吸い込んだ空気は吐き出す息と同じ熱を含み肺を満たしたところでほぼ無意味だ。恐ろしいくらいに静かな心臓と、それに反して衣服の擦れる音すら拾う耳。何もありがたくない湿気を含んだ熱風がもう油で額にへばりついた前髪を揺らそうと意地になっているが叶わない。ふう、と熱い息を吐いて双眼鏡を下ろしたスポッターを、かれこれ三日三晩スコープを覗きっぱなしのスナイパーが「おい」と諌めたがすっかりその声に迫力はなかった。

「スタン。さすがに交代しましょう、限界よ」
「チッ…」

短く舌を打つ音と私に準備を促すハンドサイン。三日抱いていたアサルトライフルを乱暴に仕舞い、バックパックから愛銃を取り出し素早く組み立て額を拭うと水分を失った体から出た脂汗が手の甲にべとりと自分自身の限界も告げる。ああ、シャワーを浴びたい。そんな弱音をカラカラの喉で受け止めて先ほどまでじっと数ミリさえ動かずにターゲットを待ち構えていたスタンと役割を交代する。視界の端でスタンが私のアサルトライフルを勝手に手に取り構えるのを見て、お互い短期戦だと思い込んでいた稚拙さを知った。スタンはアサルトライフルを自分のバックパックに用意していない。そりゃあそうだ、スタンがスポッターの役割を担うのはこのスナイパーチーム結成後初の事件なのだから。

「で?いつまで粘る」
「…レーションは残り二つ、水はボトル二個。明日の夜が限界じゃないかしら」
「いや、朝だ。朝で引き上げる。」

残り六十時間と口にした彼の声はかすれていた。自分の限界もわからない程落ちぶれてはいない私たちの本当の意味でのリミットを攻めた時間だった。
往生際が悪い、だが賛成だ。ここまで来て逃がしてなるものか。べとりと油をまとった髪をかき上げ大きく息を吸い吐き出した私はスコープを覗きこみ、トリガーにプレッシャーをかける。完全に無防備になってしまった私はいつも通りに命をスタンに預けた。この任務が終わったら髪を切ろう、そう固く胸に誓いながら。

「ああ、タバコが吸いてえな」
「咥えているだけなら許可するわ」
「女神じゃん」

そう言って自分のバックパックからタバコのみを取り出し唇に咥えたであろうスタンがようやく大きく息を吐いたのが聞こえた。呆れたものだ、自分のアサルトライフルは置いてきたくせにタバコはちゃっかり持参済だなんて。上官にバレたら私まで罰を受けそうだ。

「終わったら飲みに行こうぜ」
「あなたと?絶対に嫌」

その会話からたった数刻、突然スタンの気配がピリリッと変化したのを肌が逃さない。狭いスコープでは見えないものの、つまり、フィールドにターゲットが現れたことを本能で感じ取った。スタンの鋭い殺気は自分に向けられたものでなくても居心地が悪い。ずるり、と心臓を引きずり出されてしまいそうだ。

「おい、ポジション替わるか」
「馬鹿にしないで」

照準をターゲットに合わせる。ここでスタンなら頭を狙うだろうが、確実性を見て腹部の少し上に照準を持っていくと隣から野次が飛ぶ。馬鹿ね、こんな場所でマトモな治療なんて受けられないのだから頭なんか狙わなくても胸で十分。即死じゃなくとも二分以内に死に至る。ふん、この状況で助けてやれる人間なんて誰一人としていないだろう。ターゲットの顔を改めて確認すると、任務が始まる前に散々上官に目に焼き付けておけと釘を刺された男で間違いない。待ちくたびれたわ、さようなら。

「せめて安らかに」

偽善を唇に、たった3ポンドの引き金を引いた。

サプレッサーに吸収されてはいるが風を切って耳に届いた「パンッ」という渇いた狙撃音に飛び起きる。じっとりと体を濡らす汗とカラカラの喉、浅い呼吸。ばくんばくんと今にも飛び出しそうな心臓が酸欠を訴える。ベッド脇に置いていた水を夢中で手に取りごくごくごくっと口の端から水が溢れるのも気に留めず体に押し込んで、ぷはっ、と唇を離した。ああ、汗だくだ。シャワーを浴びなきゃ人前には出られないな。
ふらりと立ち上がり服を脱ぎ捨てながらシャワー室に向かう。その際に拭った額の汗は、水分をあまり含んでいないものの、さらりとしていて余裕がある。普段は寝苦しいとすぐに目が覚めてしまうものだが、こんなに汗をかくまで目覚めないなんてめずらしい。余程疲れていたのだろうか?体がやけに重たい。
そうだ今日の哨戒は私の担当だっけ?こんななにもない世界で哨戒と言っても狼やワニを殺すだけだけれど。ふん、と鼻を鳴らしてシャワー室に飛び込むと冷たい水が汗を洗い流した。
ああ、頭痛が酷い。

濡れた髪をまとめて食堂に向かうとルーナが「おはよう!」と元気に挨拶をしてくれる。おはようルーナ、と頬に唇を落とすと可愛い人はぴくりと体を震わせて照れるものの、同様に頬に唇をくれる。今日も彼女はとても可愛い。哨戒がんばれそう、と心で呟いて水を手に取り席に座ると目の前にズカリと座るは我が海兵隊が誇る特殊部隊の隊長様。ま、もうそんな組織もないんだけど。

「おはよう、スタン」
「朝からシャワーなんていい身分じゃん」
「汗が酷くてね。」

そう言って水を口に含む。訓練兵時代に馬鹿みたいに水を飲まされていた頃をふと思い出すが、それも遥か昔の話。そう、全て昔の話。

「ねえスタン。」
「なに?」
「狙撃銃のトリガーって3ポンドよね?」

なにを当たり前のことを、と鼻であしらわれてしまった。頭では理解しているし確かにあの日以外の狙撃銃のトリガーは恐ろしいくらい軽かった。そう、あの日以外は。

「…あなたは初めてトリガーを引いた日のことを覚えてる?」
「覚えてないね」
「私も。」

はあ、とため息をつくと不思議そうに綺麗な顔がこちらを見る。確かに私からこんな昔話をすることなんてない。珍しいこともあるもんだ、と我ながら俯瞰。

「あの三日三晩の大事件のことは覚えてるよね?」
「その話はやめてくれ」

タバコを灰皿に乱暴に押し付け舌打ちをするスタンに苦笑い。ターゲットの死亡を確認しあのスポットから撤退後、キャンプに戻った瞬間に脱水症状で倒れたスタン。そんな彼を引きずって無理矢理水を飲ませたことは私にとってはもはやいい思い出だが、彼にとっては人生の唯一の汚点なのだろう。再三言うが、三日三晩もあの劣悪な環境と限られた水分の中で集中し続けたのだ。歩いてキャンプまで撤退できたことを誇りに思えばいいのに。

「私ね、あの日引いたトリガーの重さをまだ覚えてるの」
「ヘェ、ターゲットの顔は?」
「まったく!ただ、あの時のトリガーがやけに重くって…」

それが良心か、忠誠心かまだ計れずにいる。
そう口にするとくだんね、とぼやいたスタンが新しいタバコに火を着けた。

「アンタに良心なんてないし、忠誠なんだろうよ」
「そ、なら誇らしいわね」
「ハァ?まだそんなこと言ってんのか。はやくそんなもん犬にでも食わせちまいな。」

もう守るモンも忠誠誓うモンもねぇだろうが。と吐きつけるスタン。タバコの煙を吹き掛けられ、思わず「パワハラじゃん」とクレームを入れると足を蹴り上げられた。いっ………なにしてくれんのよ!

「はーあ、特殊部隊隊長様が私のような階級の者に渇を入れてくださるなんて!」
「もう関係ねェだろ」
「残念、体に染み付いてます。」

同じ階級だったのは一瞬で、そのあとすぐに異例の昇級を重ね、士官候補生学校をクリアし将校になってしまったスタンと、あの一件以来現場に出ていない私。いつの間にかスナイパーチームだった二人の間にはとんでもない上下関係が築かれていて取り返しがつかなくなっていた。…彼が将校になるから勉強を教えてくれと言い出したときは本当に驚いたものだ。
おかげで関係も希薄に…なっていたら良かったものの、なにかと連れ回され今の関係に落ち着いている。ああ、懐かしいな。今思えばとんでもない話だが、スナイパースクール主催のスナイパー大会に知らないうちにエントリーされていてスポッターとして彼の隣に置かれたときのあの場違い感と周囲の目。スナイパー大会といえば、忘れもしない完全装備でいきなりの長距離行軍…そして総合優勝を果たした後の、スタンの「トロフィーだっせ、アンタにやんよ」という決して断ることができない一言。そのダサいトロフィーは結局、最期まで私の部屋の隅で埃をかぶってた。
彼の言う通り、軍隊はもう存在せず私たちを縛る階級もなくなった。それでもスタンを「上官」と認識する癖が抜けず、今に至るのだ。

「もう誓うものがないからね。上官に忠誠誓ってないとやってらんないのよ」
「犬じゃん、馬鹿らし」
「あら私たちはデビルドッグよ」

ふふん、と笑うと思いっきり足の甲を踏みつけられた。突然の衝撃に思わず太ももが跳ね上がりテーブルに思いっきり膝を打つ。振動により水が入ったコップが大きく揺れ倒れそうになるのをパシッとキャッチし、膝の地味な痛みに悶絶。

「だからもう軍隊も階級もねぇの!こだわってんのアンタだけだぜ?」
「だって」
「あん?文句があるなら言ってみな、聞くだけ聞いて土ん中に埋めてやんよ」

いつの間にか目の前にいたはずの彼が真横にいて私の頬を乱暴に掴んだ。膝の痛みに顔を伏せている間に机を飛び越えたのか、この野郎。昔の私なら今ここでカウンターをかましてたところだ。

「自分が変わってしまうことが怖いの。」

この暮らしにも随分慣れた。目が覚めてから早数年、生ぬるい生活が当たり前になって人より少しだけ上手かった殺しの腕も生活のために振るうようになった。銃が誕生すればなにか変わるかと思っていたらなにも変わらず、なんなら当たり前に抱いて眠っていたそれを持ち歩くこともなくなった。髪もすっかり伸びてしまって、それに違和感も感じない。少しずつ軍人ではなくなっていく私を咎める人すらいない。それを許せずにいるのは私だけだ。

「でもアンタ、変わったよ。昔なら暴言吐きながら取っ組み合いになってた。」
「ふふ、その整った顔の鼻をへし折ってやってたわ」

躊躇いなく急所狙うじゃんとタバコを咥えなおしたスタンがぱっと頬から手を離す。真横に座って灰皿を引き寄せた彼が煙を吐くのを眺めて、ぼそりと胸のうちを吐露した。

「軍人であったことが悪夢だったのかも」

揺らいだ忠誠に少しだけ心臓が逸る。頭が割れそうなくらいに痛むし息が上手くできない。ひゅ、と喉が鳴ればカラカラのそれが不快で胸が詰まる。
ああ、ああ、スタン、お願いスタン、どうか私を叱責して。怒号で私の目を覚まさせて。私の職務はとても誇り高い仕事だとその手で頬を打ち付けて。
その望みをすべて裏切って「そうだよ、全部悪い夢だった。」と口にしてタバコを灰皿に押し付ける。そしてするりと私の頬を撫でて私の渇いた唇に唇を重ねるスタン。あまりにも突拍子もない行動に私はぴくり、と指しか動かせない。

「これじゃあ、もう上官と部下でいれねぇしなぁ?」

パンッ
渇いた狙撃音が脳内で弾ける。その音にびくりっと体を震わせるとスタンが顔をしかめながら私の名前を呼んだ。唇に指を当てて、先ほどの感触を確かめるとあまりに、あまりに私が変わってしまったことを突きつけられた。

「…ええ、もう戻れない」

今狙撃されたのは、一体、なんだったのだろう?どこも痛まないし、息も苦しくない。
ただ、あの日の私が怨めしげにこちらを睨むのだ。

いきなり詰められた距離のおかげで目の前で微笑む男はもう上官ではないし、私も彼の部下ではなくなってしまった。私と旧世界を繋ぎ止めていたなにかが狙撃音と共に途絶えてしまったのだ。…失ったものが大きすぎるなぁ。
それなのに朝から続いていた正体不明の頭痛が消えて、ようやく穏やかに空気が吸える。朝からどうしても体が重かったのは寝苦しかったせいだからだろうか?
そのせいであの引き金を引いたのは、私か、スタンか。そのどちらかすら判別が難しい。

「知らなかったわ、あなたが私を愛してたなんて」
「けっこわかりやすくアピッてたんだけどね。」

唇が落ちて、ぬるり、と舌で唇をなぞられ再び吸い付かれるとリップ音が頭の中を支配する。思わずスタンの手を握ると満足げに微笑んで「やっと隙が出来たな、アンタ」と至近距離で呟いた。
私が悪いと言わんばかりの言葉に苦笑いをしてしまう。仕方ないでしょ、ついさっきまであなたは私の同僚であり上官だったのだから。

「そーいやなんで急にあの日の話なんかしたワケ?」
「…あれ、そういえば…どうしてだろう。」

ああ、さらば愛しの忠誠心。

公開日:2020年8月18日