俺に最高の夜をくれ

「婚約者がいたの」

そう口にした彼女は今まで一度も見たことがない穏やかな表情で微笑んでいた。今、名前はルーナと談笑中で俺はその側を通りかかっただけ。それだけだってのに、嫌に耳につく言葉と愛しいあいつのあんな顔を目撃しちまうとは今日はもう良いことが一つも起きなさそうだ。

「あらスタン!今から見回り?」

俺を見つけた名前の瞳が大きく光を捉える。その先には俺がいてどうしようもなく愛しさがこぼれる。相変わらずとても優しい微笑みと声に引き寄せられた俺は名前の頬に唇を落とす。

「ちょっと行ってくんね」
「気をつけてね」

そう言って手を振る名前と別れるのが名残惜しくて唇を重ねる。もう、スタンったら。と笑い出してしまった名前に「愛してる」と伝えてもう一度唇を落とした。

その後は散々だった。
いつもの見回りコースに明らかにこの世界では失われたはずの文明と意識を保ち続けた奴だけが復活できる特権をまるで無視したような、そう、年端もいかぬ少年少女を発見してしまった。研究室に足早に向かい端的に先ほど目にした文明や敵についてゼノに報告。会話を重ねるうちに「硝酸以外にも石像を起こす方法がある」という結論に至った俺たちの背後からガシャン!とガラスの割れる音がした。ああ、最悪だ。

「ご、ごめんなさい盗み聞きするつもりはなかったわ。」
「いや、君にもいずれ話をしていただろう。むしろちょうどいい、この状況をどう考える?」

余計なことを、と思いつつ先ほどガラスを割ってしまいその片付けを済ませた名前の指先を確認する。怪我はしてねぇな。ゼノから事の詳細を聞いている名前は冷静に科学者であろうとしていて、その瞳が揺れることはない。ただ、握った拳が震えていた。

「…ごめんなさい、思考がまとまらないから時間を貰える?」
「君が?珍しいね」
「そんな日だってあるわ。」

そう口にして、少しだけ震えてる名前が息を吐く。きっと名前なりに結論に至ったものの口にしてしまいたくなかったんだろう。冷静な科学者様の表情から一変、いつもどこか余裕のある笑みを浮かべているその顔は今にも泣き出しそうで参ってしまった。

「だって、意識を手離した人間は、もう二度と起きれないはずじゃ、」

婚約者がいたの、という彼女の声が頭に響いた。クソ、本当に散々だ。人生で最悪の日を上げるなら今日がふさわしい。
敵に夜襲をかけることが決まり準備のためその場を離れたが、どうしても名前の震えた声が引っ掛かってたまらなかった。

結局夜襲も失敗、あーあ、どうゼノに説明すっかな。クッソ、マジで良いことがない。吸ってるタバコの煙が重いくらいだ。思わず踏み消してしまったタバコと肺に残った煙を吐き出す。名前は今どうしてっかな、もうベッドに入って眠っているだろうか。
もし、もしだ。石像がまだ生きてて、復活する手段があるとしたら。名前は婚約者ってやつを起こしたがるだろうか。…いや、なに考えてんだ、俺が間男だっての。

煙もないのにハァアァ、と息を吐いて新しいタバコに火をつける。煙に頼るしかない俺を彼女が笑い飛ばしてくれないだろうか。なんて情けねぇことを考えていると背後から愛しい気配がした。…起きてんのめずらしいじゃん。

「あ、やっぱりいた。スタン、おかえりなさい。」

ひょこっと現れた名前に思わず口元が緩む。途端に軽くなった煙に、俺もどうしようもなく単純な男だということを突きつけられた。隣に座った名前が俺の顔を覗き込んでにこりと笑う。ちくしょう、かわいいな。

「無事そうで良かった。」
「お前のこと最高にいい女だと思ってっけど心配性なとこは直したほうがいいな」

いらない心配だった?なんて言うもんだからその唇を塞ごうとしたが、あの言葉がちらついてしまいぴたりと自分の動きが止まる。その様子に首を傾げる名前の頭を撫でた。

「で?ゼノ先生と結論出せた?」
「ええ、意識がない人間は一種のコールドスリープ状態だと仮定したわ。つまり、石像は生きてる!」

とってもエレガントじゃない?と笑う名前に笑えない俺。もう確定じゃん、こんなに嬉しそうな彼女は見たことがない。

「…婚約者、叩き起こせるといいな」

諦めを含んだ煙を吐き出して名前に伝える。こんないい女なんだ、きっと幸せにしてもらえるはずだ。俺だって同じ立場ならそうする。大きな瞳を丸くしてばつが悪そうに苦笑いする名前がおそるおそる口を開く。

「…昼間の話、聞こえてた?」
「婚約者がいたってトコだけだけどね」
「そう、あなたの様子がおかしい理由はそれね?」

呆れたような声が隣から聞こえて頭をかく。しょうがないじゃん、こちとら本気でお前を愛してんだよ。と伝えるかどうか悩んでいると口に咥えたタバコをぱっと奪われ、名前が顔をぐいっとのぞきこんできた。
まっすぐ目を見つめられ、思わずぐ、と息を飲む。

「くだらない話よ、ルーナにも笑われた。それでも聞く?」
「…ああ、聞かせて」
「優しい人だった。私より年上で研究熱心で、毎年誕生日には花をくれる人。」
「そんな話聞きたくねーんだけど」

はぁ、と息を吐くと彼女が隣でケタケタ笑いだす。笑い事じゃないと名前の頬を軽くつまむとごめんなさい、話続けるわねと俺の髪にキス。

「お兄ちゃんみたいな人だったの。恋愛感情なんて一切なかった。
けどね、いい歳した娘が恋愛もせず研究に打ち込んでるのを良く思わない人物が二人…両親って言うんだけど…」
「あー…そりゃ大変なこって」
「相談したら籍だけ入れてお互い好きなことやろうかって話に」
「それを婚約者って呼ぶなややこしい!」

タバコ返せ!と名前からぱっとタバコを奪い取る。
一日を無駄にした気分だ!

「あはは、まさか聞こえてると思わなかったんだもの!ごめんなさいね」

俺の頬をいたずらに触りながらやっぱり明るく笑う。俺の気も俺の散々な一日も知らないで。

「ゼノから話聞いてっときに動揺してたのは?」
「悔しいじゃない、私が知らない科学があったのよ?!」

頭を殴られた気分だった、敵の科学者の助手になりたいくらいだわ!と話す名前に頭痛がした。そりゃ親も娘の将来に口出しするわ。

「ならなんで石像起こせるのあんなに喜んでたんだよ」
「え?そりゃあ…何千年も意識保っているのは辛かったもの。安らかに眠っていられたなら、幸せなことだと思わない?」

とても穏やかな表情の彼女に、まだ見ぬ婚約者とやらに妬けてしまう。なによりも、心が優しすぎる目の前の女性はたくさんの人を救うことができるのよと大層な夢を口にする。なんてやつだ、俺なんて自分のことしか考えてなかったぜ。

「と、いうわけで彼が起こせるならきちんとお別れを告げようと思っているわ。」
「そりゃあいい、そうしてくれ」
「…驚いた、冷たい女って笑われるかと思ってた」
「そんなら、アンタを手放せない愚かな俺を笑ってくれ」

その婚約者と幸せになってくれなんて言えっこなさそうで参ってたとこだ。

情けないくらいハッキリと言葉が出ない。それなのに名前はハッキリ「そんなことあなたに言われたら寝込んでしまうわ!」と笑う。クソ、やっぱり今日はいいことが何一つない。こんなかっこ悪いとこ見せちまうなんて。

「愛してる。」

そう伝えて唇を奪う。私もよ、と返事を最後まで言わせないように何度も何度でも唇を重ねて名前の呼吸を支配すると少しだけ開いた唇から困ったような吐息がこぼれた。

「俺、今日がこれまでの人生で一番最悪な日だったんよ」
「そ、そんなに?」
「そーだよ。だから、」

俺に最高の夜をくれ

私でよければ、と微笑む彼女の頬に数十回目のキスを。アンタがいい、と緩む口元に唇が落ちればきっと最悪の一日が一変、人生で一番最高の夜がはじまる。

公開日:2020年7月14日