#3 ライラックの墓場

「美味しそう~!」

そう運ばれてきたパスタやピザに瞳をきらり輝かせる。飾った指先がワイングラスを持ち上げれば、こちらも目の高さまでコーラを上げて「チアーズ」と陽気な乾杯を口にした。
こんなに穏やかな乾杯は初めてだと言っても過言ではないくらい、今日の名前は晴れやかな表情をしている。にっこり口元を緩ませてワイングラスを傾ける彼女にこちらの頬まで緩む。今日は一段と可愛くて困っちまうな。

「機嫌いいね」
「そう?」
「可愛いよ」
「ありがと」

…こりゃ前できたって言ってた男と別れてねえな、なんて邪心さえなければ最高のデートになっただろう。名前が俺と会うなんざ大体男絡みでヤケになっているときか、話を聞いてほしいとき、あとは単純に暇なとき。今日は単純に暇だったらしい。いきなりの誘いだったにも関わらず二つ返事で「ピザが食べたい」と言ったプリンセスの仰せのままに俺達はイタリアンに足を運んだわけだ。

「ピザ食いたいなんて珍しいじゃん」
「血には逆らえないのよ」

そう笑ってピザを頬張り、チーズをびょんと伸ばす名前。アメリカ人の血が騒いだと主張した彼女に喉を鳴らしながら「ソースついてんよ」と指摘するとんんっと言葉になっていない返事が返ってきた。
チーズと格闘している名前を眺めて、パスタを口に運ぶ。いつも酒ばっか飲んでいる名前が酒よりも飯を食っているのが珍しくてたまらない。

「…なに?」
「いや?ピザ美味い?」
「とっても!」

パッと表情を明るくする名前に、めちゃくちゃ可愛いなコイツと頬杖をついてじろじろその緩んだ顔を堪能する。そして名前の恋人はこんな姿を毎日拝めるのかと見たこともない男にどうしようもない感情を抱く。
なーんでこんなにいい女がいて浮気すんのか理解に苦しむな、と過去の男に悪態を。そして今の男になにか欠点があればどれだけ良いかと名前の幸せを素直に喜べないクソ男にため息を贈った。

「どうかした?ため息なんて珍しい」
「名前が可愛すぎて見とれてた」
「いいからご飯食べなよ」

見事玉砕。はいはい今日も素直に口説かれてくんないわけね。彼氏がいる女を口説くとんでもない男だと自覚はしているが、もう少し可愛い反応をくれたって良くないか?
やるせない感情をフォークにぶつけてパスタを巻き取る。そして大口を開けてそれを再び頬張った。ピザがトマトソースだからパスタはクリーム。ホワイトソースが口内に広がればベーコンの塩味が良いアクセントになる。パスタはもちもちとした食感を失っておらず、まあ、不味くはない。

「ふふ、スタンもソースついてるよ」

そう笑って自分の口元を拭ったナプキンをスッと俺の唇に寄せる。そしてそのままソースを拭った。「取れた」と笑っている名前に不用意にドキンと心臓が鳴く。…ああ、クソ、こいつほんっとこういうとこあんな。

「ドーモ」
「パスタ美味しい?」
「ん」

そう短く返事をしてパスタを巻き付ける。そして少なめのパスタを巻いたフォークをずいっと名前の口元に突き出すと小さい唇があーんとパスタを迎え入れた。マジで今日どうした、機嫌が良すぎて怖い。夢か?名前が好きすぎて幻覚でも見てんのか?俺。

「美味しい!」
「良かったじゃん」
「スタンもピザ食べなよ」
「食べさせて?」

そう言って名前に笑いかけてみる。普段なら足蹴が飛んできて「それどころじゃないんだけど?」と睨まれる発言。ま、良くて冗談でしょって流されるくらいか。期待せずにちら、と名前の表情を伺うと名前は新しいピザを綺麗な指先で持ち上げた。そして「はい」と俺の口元にそれを持ってくる。
想定外の行動に思わずガチャンとフォークを落としてしまって、けれどそんなことを気にしてなんかいられない。びっくりしすぎて見開いた目を数回ぱちぱちとまばたきすれば、名前はゆっくり長い睫毛を上下させた。

「食べないの?」
「い、いや…俺明日事故にあうかもしんないなって」
「笑えない冗談言わないでよ」

本日初の呆れた声がこんなに心地良いとは思わなかった。そうそう、これこれ。この少し低い声と、じとーっと俺を見る名前がいつも通りの名前の俺に対する態度。いや、自分で言っててかなり虚しいが。
名前が持ったままのピザにかぶりつくとチーズがどろりとバランスを崩す。やば、ともう一口かぶりつくと唇に名前の指が当たった。ふにりと触れた名前の指は少しだけ冷たい。
思わずそのまま名前からピザを取り上げる。そしてそのままピザを口に放り込んで無心で咀嚼を繰り返す。一方、名前は気にしていないようにナプキンで指先を拭くだけ。

「美味しいでしょ」
「…うん、美味いね」

正直味なんかどうでもいい。ぐっとコーラを喉に押し込んで先ほどの真っ直ぐ俺を見つめる瞳を、唇に当たった指先を飲み込んだ。目の前の女は俺の気なんか知らないで上機嫌に食べかけのピザを口に運んでチーズと格闘を再開している。まったく、嫌なことがない日の名前は心臓に悪い。

「あ、そういえばね」
「うん」
「こいつのこと覚えてる?」

そう言ってスマホの画面を俺に向ける。画面に表示されている写真の人物を視認すると、思わず「うっわ」と声が漏れた。
覚えてるもなにも、その男は名前と俺を出会わせたクラスメイトだった。勘違いしないでほしいが、こいつが名前を紹介してくれたとかそんな綺麗な思い出があるわけじゃない。
忘れるはずがないこの風貌は、ハイスクール時代に転校してきた名前にしつこく迫り校舎裏で名前に襲いかかっていたクソ野郎だった。

あれはほんとに昔の話、ざっと十数年前。
1コ下の学年に可愛い女子が転校してきたと風の噂が流れていた頃。声がデカいだけのソイツは「絶対に俺の女にする」と息巻いて毎日毎日しつこくその女に迫っていたと聞いていた。ただ、ソイツが誰とくっつこうが誰を口説こうが興味がなかった俺はその話すらどうでもよくって気にも留めていなかった。

…それなのに、あの日。たまたま通りがかった校舎裏で壁に追い詰められた女とソイツを目撃した。女は嫌だと泣きそうな顔で抵抗をしているにも関わらず、腕力で押さえ込まれて胸元をはだけさせられている。男は興奮しきった顔で表情に欲を滲ませて、女の反応なんて見ちゃいない。
その時すらとんでもない場面を目撃してしまった、と関わらないように素通りしようとしていたことをよく覚えている。自分の身は自分で守んな、と言い訳のように頭でぼやいたことも。ただ今にも泣き出しそうな女の顔がとてつもなく可愛らしく、ふーん、こりゃ今後も苦労しそうだと口の中の飴を噛み砕いた。

別に女が可愛かったからでも、男が嫌いだったからでもない。偶然、潤んだ瞳と目が合えば足は自然に止まった。そしてその瞳に諦めが浮かんでいることに気づいた俺は、ため息ひとつ吐いてゆっくり二人に近づいてこう言った。

「なあ、助けてやろうか?」

女に向けて言った言葉はたったそれだけ。そこから小さく頷いた彼女。その反応を見てすぐに男をひっくり返したわけだ。
それが俺と、男運がない彼女との出会いだった。

…そんで、なんで被害者が加害者の写真を持っているわけだ?それがまったく理解できない。あの時「この子に二度と近寄んなよ」と釘を刺してから俺らが卒業するまでトラブルは起きなかった。なのに。
ぐるぐると昔の話を思い出しつつ、名前があいつの写真を見せてきた理由を探る。大人になってから偶然出くわしたとか?でも俺にわざわざ写真見せてくるか?

「………まさかアンタ、今の彼氏こいつじゃないだろうな」
「面白い冗談ね。心配しなくても私、こいつのこと今でも去勢してやりたいくらい嫌いよ」

これが泣きそうな顔してたか弱い女の未来の姿だ。めでたいね、俺が願った通り自分の身は自分で守れる女になっちまった。

「じゃあなに?わざわざ写真まで見せてきてさ」
「こいつね、遂に婦女暴行で逮捕されたらしいの」
「マジ?!最高じゃん」

でしょ?!と楽しそうに満面の笑みで手を突き出してくる。それにハイタッチしてパンッと小気味良い音を鳴らせば、珍しく名前がケラケラ!と声を上げて笑い出した。

「友達から聞いたんだけどね、絶対にスタンには言わなきゃと思って」
「だから機嫌良かったんか」
「そうかも。あー、やっとこのキモい写真消せる」

そう言って写真を消した名前。本当に俺に見せるためだけにわざわざ保存して大事に持ち歩いていたらしい。この健気さ、もっと他に費やしてほしいものだ。
もう一度名前が陽気にワイングラスを持ち上げると俺のことなんか待たずに「チアーズ!」と笑う。それを追いかけるようにこちらもジョッキを持ち上げて乾杯を口にした。

「めでたいじゃんね」
「本当に!いつかこうなるとは思ってたけどね」
「つーかあんとき警察突き出してやりゃ良かったのに」
「そうなのよ、スタンのおかげで未遂だったしいいかなって思ってたらこのザマ。やっぱりクソ男に制裁って必要なのね」

そう言って悔しそうに唇を尖らせてそのまま怒りをぶつけるようにピザを頬張る。ぶん投げて一発入れてやっただけじゃ更正しなかった男に同情しようもない感情を抱くが、ま、今となっちゃどうでもいい話だ。
あの日から名前と細々とした交流が始まった。学校で出くわすたびにからかったり、一緒に帰ったり、それこそ週末はデートしたり。ゼノに「可愛いだろ」と自慢したりして、そう、当然のように名前は俺のことを好きだと信じてやまなかったある意味可愛らしい青春の一幕だ。それがどうしてこうなったのかは名前にしかわからない。
正直どうでもいい奴が逮捕されるよりそっちのが大事な話題なわけだが、聞いても真意は教えてくんないだろうなぁ。

「そういやアンタ、彼氏と仲良くやってんの?」

話題を変えたってこういう話ばっか。ただ俺は今現在の男との愚痴を聞き出そうとしている。どうせ名前が捕まえた男だろ、なんかあんだよ。…まぁ、なんかあって別れたところで名前の矢印はなぜか俺には向かないわけだが。

「あれ?私今フリーよ」

俺の質問にそう首を傾げながら答える名前に思わずコーラをふき出す。慌ててジョッキを置いて「はっ?!」と短い疑問を叩きつけると「言ってなかった?」と非情な言葉が返された。聞いてたら忘れるわけがないだろ、明らかにアンタの報告不足だよ。

「聞いてねえよ、なんで別れたん?」
「彼は悪くなかったんだけどねー」

そうどうでも良さそうにワインを流し込む。お、おお…別れた男の話をしているのに穏やかだ。こりゃ珍しく円満に別れてんな。

「デート中に彼のママに掴みかかられて」
「なんだそりゃ」
「私のベイビーとらないで!って言われたから返品してやったの。面白いでしょ」

前言撤回、こいつが円満に男と別れるなんてありえない。ただ珍しく笑って聞いていられる内容だ。いつもは浮気されただのなんだの物騒な話題が尽きないかんね。

「結婚する前にわかって良かったじゃん?」
「ほんとにね。それにしてもびっくりしたわよ、いきなり女の人に掴みかかられて髪引っ張られてね」
「事件じゃん」
「思わずぶん投げたら彼がママの心配ばっかするもんだからママんとこにソイツもぶん投げて帰って来たの」

そんな面白い話よく黙ってられたなと思ったものの、名前の中ではあまりに軽度な別れ話だったんだろう。いや、話すらしてないか。きっとその場を離れてすぐに男の連絡先を消してサヨウナラも突きつけずに次。そういう女だ。

「あとから言い訳されたけどよくもまあ連絡取れたわよね」
「庇ってくんなかったんだろ?最低じゃんね」
「そうなの。こんなにか弱い女の子なのに」

か弱い女は二人も人間をぶん投げたりはしない。そう内心ぼそりと呟くが今は名前の味方だ。いや、俺はずっと名前の味方。ただ冷静に名前の行動にツッコミを入れているだけ。
それに彼女が掴みかかられてその対応はありえない。同情なんかできないね、と別れたらしい顔も知らない男を頭の中で蹴っ飛ばした。

「…ね、今フリーなんだろ。俺とかどう?」
「私、いつ死ぬかわからない男と付き合ってられるほど暇じゃないの」
「ヘェ、言い訳が上手いね」
「そういうことにしておけば?」

名前の瞳が鋭く俺を突き刺す。いつも怒りを含んだ瞳を、俺ではない誰かに向けていたはずなのに今はまっすぐ俺を睨んでいる。大きい瞳を怪訝そうに細めて眉間は深く刻まれていて可愛い顔が台無しだ。

「…そんな顔すんなよ」

そう言って名前の頬をむにりとつまむ。大きく目を見開いたあと、化粧が崩れるとだけ言った名前は瞳を揺らして俺から目線を外した。伏せた瞳は少し潤みはじめていて、その彼女の反応にぴくり、指先が反応する。…なんでそんな泣きそうな顔すんの。アンタのそんな顔、見たくないしさせたくなかったよ。

「ごめん」
「なんで謝るの」
「アンタのこと泣かせた」
「泣いてない」

そう言って俺の指をぱちんと叩いた。ふう、と息を吐いた名前はすぐにコロリと表情を明るく変える。変なところまで強い女になっちまって、ぎゅう、と胸が鳴いた。

「私、スタンのことは好きよ。でもね、やっぱり私はあなたとは付き合えない」
「何度も言うなよ。泣くよ、俺が」
「なら泣き止ませてあげる。海が見たいから連れてって」
「…アンタほんっと俺の扱い上手いね」

デートってことでいいよな?と確認をとると「そう捉えてもらってかまわないわ」とつれない返事。どうせこのあとドライブに誘うつもりだったが名前から散歩に誘われたのはこれが初めてだ。思わず唇を鳴らすと「…やっぱりデートじゃない」と前言を撤回する。そんなところも可愛いんだよ、わかってくれ。

「じゃ、とっとと海行こうぜ。早くアンタとふたりになりたい」
「ほんっと調子狂うわね…私、あなたを振り回してるのよ?」
「男は好きな子に振り回されてえの」

そうニマリ唇で弧を描くと「負けたわ」と敗北宣言をして口元を緩ませる名前。ふにゃりと柔らかく困ったように笑った彼女にどうしようもなく胸が鳴った。ああ、やっぱり今日の名前は機嫌が良い。いつもならこんなに簡単には絆されてはくれない。まったく、今日はめでたいね。
店員を呼んで会計を促すと名前が財布を取り出す。それに「いんねーよ」と断って財布をしまうように伝えるとムッと唇が結ばれた。

「ダメよ、私が誘ったんだから」
「いーの、今日は俺が出す」
「誕生日でもないしご馳走してもらう理由がないわよ」
「いーんだよ、アンタが男と別れんの、俺にとってはめでたいことなんでね」

こんなことならもっといい店にしとくんだったよと言って最後まで財布を握ったままの名前を牽制しながら会計をする。店員も男だったおかげで俺が支払うことに協力してくれた。まったく、こういうときは男を立てるもんだぜお姫様。

「…本当に馬鹿な人。私のどこがいいんだか」

そう言ってそっぽ向いた名前の手を取って立つように促す。素直に立ち上がった名前の身長はヒールのおかげで少し高い。さっき俺がつねったせいで少しよれた肌が目について、そこに唇を落とすと「…もう」と困ったような声が聞こえた。

「海でたーっぷり教えてやんよ、名前の好きなとこ」

今日は逃がさないとがっちり掴んだ手を、名前はどう思ってんのかね。もし、まんざらでもないと思ってんなら素直に拐われてくれ。世界で一番可愛い人。

公開日:2021年3月1日