残業した夜の話

「た、ただいま…」

定時後にいきなり翌日朝締め切りの仕事を振られたことがあるだろうか?申し訳なさそうな上司の顔、そそくさと帰る先輩たち。何故私?と問う前に自分がやったほうが早いなんてあまりにも合理的な判断により残業が確定したことが、あるだろうか?
残業は別にいい、その分きちんとお金さえ貰えたら文句はない。ただ、私が疲れきっているのは朝部屋に残した恋人がへそを曲げきっているのではないかという不安から急いで仕事を終わらせて駅まで走ったからだ。もちろん、終点から家までも全力で。

「おかえりハニー、お疲れさん。ちょいと待っててくれ。」

息絶え絶えに玄関のドアを開けると朝いってきますを伝えた相手がキッチンから私を労う声がした。そしてどたばたと玄関まで足早にお出迎えにきたスタンが私を引き寄せハグをする。

「ごめんね、遅くなっちゃった。」
「走って帰ってきたんだろ?」
「なんで知ってるの」
「アンタのことならなんでもわかんよ」

そう言って手の甲に唇を落としたスタン。その優しさと体温に残業によって冷えきった心がほんわりと温かくなる。
てっきり遅いと叱られてしまうものだと思ったから、案外温かく迎え入れられたことも一因だろう。良かった、彼の機嫌を損ねずに済んだらしい。

「あーあ、ヒールで走っから足ボロボロじゃん」
「うわ、ほんとだ」

スタンに指摘され爪先を見るとヒールで擦れた小指から出血、親指には水ぶくれができてしまっていた。普段から働く足だ、綺麗なものではない。

「今日もがんばったんだな。偉いじゃん」
「そう、私偉いの。」
「うん、だから早く飯食って風呂入っちまいな。」

今日はアンタの好きなシチューだぜと得意げに言うスタンに思わず「ふふっ」と笑うとスタンも幸せそうに笑うものだから参ってしまった。

「帰るの遅くなってごめんね、明日は早く帰るから」
「そう言って早く帰ったことないぜ?」
「う、あ、あるよ一回くらいは…」
「いーや、ないね。」

キッパリ断言されてしまっては反論の余地がない。明日は必ず定時退社することを誓ってコートを脱ぐ。ハンガーを投げ渡してくるスタンを「うわ!ちょっ、ちょっと!」と責めながらパシッとハンガーをキャッチするとスタンから歓声が上がった。

「絶対落とすと思ってた。」
「危ないからもう投げないで!」
「キャッチできたんだしいーじゃん」

いたずらに笑う彼に勝てそうもない。やれやれ、とハンガーにコートをかけてようやく一息ついた私はるんるんとキッチンに向かう。

「わーいシチューだ」
「パンもあんよ」
「ダイエット中だからシチューだけでいい」
「ダーメ。ちゃんと食べな」
「また太っちゃう」
「ちょっとむにむにしてるほうが俺は好きだね。抱き心地が段違いだ」

もう、そう言っていつも私のダイエットを邪魔するんだから。そんなぼやきはスタンには伝わらない。皿につがれたシチューを運ぶよう指示され両手にお皿を持ち、リビングへ向かうとすぐにスタンもパンの皿を持ってリビングへ。

「あ、カトラリー忘れたな」
「私とってくるよ。」

そう言ってまたキッチンへスプーンを求めて向かった。足取りは軽くって自分でもなんて単純なんだと呆れてしまう。しかし、スタンと一緒に過ごせる時間なのだ、心が弾んでも仕方ないだろう。
ガチャガチャとスプーンをふたつ、引き出しから取り出してリビングに戻る。彼が待つリビングに、部屋に、私の居場所があることが幸せだなんて噛みしめながら大袈裟にリビングのドアをあけた。

「そーいやアンタ、今日冬服出すって言ってなかった?」
「あ゛っ…あ、明日こそは…衣替えするから…」

明日も迫りくる冬と戦うはめになりそうだ、やっぱり残業は悪。二度と引き受けてやるもんか!

公開日:2021年10月27日