海を愛する人 後日談

一日の終わり、辺りが暗くなってきた頃。作業を終わらせて夕食を摂ろうと帰路についていたら、海岸に座り込んだ人影を見かけた。シルエットはやっぱり女性に見えて、数日前とまったく同じ状況だ。なんて思いつつ人違いだったら恥ずかしい。また遠くから目を凝らすが薄暗くなりつつある空のおかげで判別できそうにない。
名前なら、また鼻歌でも歌ってくれないかなぁなんて考えてみたが一日を終えた彼女はまだ「頼れるお姉さん」モードだろう。望みは薄そうだ。

「お疲れ様」

少し遠くからそう声をかけると、ゆっくり振り向いて僕を見る大きな瞳。「羽京くんだ」と僕の名前を呼ぶ声が名前のもので安心する。…本人には決して言えないが、後ろ姿が南ちゃんとそっくりなんだよな。しかしながら彼女と他の女の子を見間違うのはいつの時代でも顰蹙ものだ。

「隣いい?」
「いいけど私もう夕飯食べに行くよ」
「じゃあ一緒に行こうか」

ちょっとだけでも、と隣に座りお腹すいちゃったと微笑む彼女の、一日中文字を書いていた黒い手を握る。汚れちゃうよと僕の顔を覗き込む彼女に、一日お疲れ様と笑って。彼女のがんばりを拒否するわけがないのに、僕の手が汚れることを心配する彼女はひたすら健気に見えて仕方がない。

「相変わらず後ろ姿じゃ誰かわからなかったや」
「ふふ、誰そ彼時だね」

コンプリートだ、といたずらに笑う彼女にどうも勝てそうもない。そもそも理系のはずだろ、雰囲気とかちょっとくらい僕にも作らせてくれよ。うーん、どうしたものか。
そんなことを考えていたら彼女のお腹が「きゅう」と切なそうに鳴いたものだから思わず笑ってしまった。お腹の音までかわいいだなんてずるいなあ!

「わ、笑わないでよ」
「ごめんごめん!」

もうどっぷり日が沈んでしまってまるで見えないけれど、きっと顔を真っ赤にして僕に苦言を呈している。ごはんを食べに行こうかと先に立ち上がり、名前に手を差し伸べるとその手をそっと取る。ぐい、と引き上げるとわ、と短い声と共にバランスを崩した名前。運動神経はあまり良くないらしい、僕に倒れこんでくるのを上手く抱き留めると「ご、ごめん…」なんて他人行儀なセリフ。
それよりも抱き止めた腰が想像よりも遥かに細く動揺してしまう。ちゃんと食べているのだろうかという心配もそこそこに、自分の底から沸き上がるむらり、とした感覚を首を振ってかき消す。

「羽京くん?」
「なんでもないよ、さ、行こうか」

手を握り直し、ちゃんと食べてる?と小言を言うと食べてます!と元気のいい返事が返ってきた。これは作業に夢中になってたまに食事を抜いていることを誤魔化しているな、まったく。

食事を摂るために作られた場所に着き、手を洗ってから適当にあいている椅子に座るとフランソワが一目散に料理を運んでくるものだから驚いた。なぜ、と訪ねる前に

「名前様がいらっしゃらないので心配していたのです。昼も姿をお見かけしませんでしたので」

と口早に釘を刺す。フランソワも僕を見てちょうど良かったと言わんばかりに「いつも食事を抜く」旨を口にした。…まさかここまでとは。「ふーん」と白々しく呟きつつ名前を軽く見ると明らかに嘘がバレた子どものようにあわてふためいて弁明。

「フランソワさんのご飯はおいしいの!で、でもね石化前は一日一食とかアイスだけとか当たり前だったから…」

食事をする習慣がなくて、ととんでもないことを言い出す名前と珍しく頭を抱えたフランソワ。僕も頭痛がしそうだが、幸いにも一緒に食事をとる口実ができそうだ。

「これからはできるだけ一緒に食事をしよう」
「えっめんどくさ」
「名前、怒るよ」

びく、と少しだけ体を強ばらせて弱々しく「はい…」と呟いた彼女はまるで手間のかかる子どものようだった。言われてみれば食事をしている彼女を見た記憶がない。上手くふらりと食事をかわしていたのだろう、そんなところ上手くなくていいのに。

「そういえばお酒飲めるんだっけ?」
「年齢的にはね。あまり強くなくて」
「そっか、一緒に飲みたかったな」

どこからともなくお酒が運ばれてくるものだからそう誘ってみる。前職の話もお酒が入った状態で聞いてみたかったけれど、弱いなら無理強いはできないな。

「…よ、酔っても羽京くんが部屋まで送ってくれるなら、飲むよ」

後方からヒュウ、と僕らをからかう音が聞こえた。誰だ、今口笛吹いたの。
残念ながら名前はきっとそんな意味を含んで発言をしていないだろう。本当に自分の足で部屋に帰れる自信がないだけだ。

「あはは、送る送る」
「ほんと?じゃあちょっとだけ飲もうかな」

食事もそこそこに、机に置かれたお酒を手に取る。本当に弱いのだろう、置いたカップのお酒の量はあまり変わっていない。今日一日なにしてた?なんて他愛ない会話を重ねるうちに、へろりと彼女の言葉が弱くなるのを察した。えっ、もう酔った?まだ三口しか飲んでいないじゃないか!

「ね、弱いって言ったでしょ?」

へらりと顔を赤くした名前がにこにこしている。彼女は酔うと普段より少しだけ陽気になるようで、ふらふらしながらえへへと笑う様子に簡単に連れ帰れてしまいそうだなんて。

「ねえ、前職の話聞いてもいい?」

自分の思考を否定するように慌てて話題を変えると名前はふふ、といつもより少しだけ大きい声で笑った。

「うちの課、スキンヘッドしかいなくてね」
「待って、IT企業の海洋機器担当だよね?」
「入社したときヤバい会社に入ったのかと思っちゃった」

あはは、と上機嫌に笑うがそんな状況だと誰でもそう思うだろう。お酒の力で口がよく回るのか、話を続ける名前。

「納品前日にバグが見つかって徹夜とかよくあったな、懐かしいな」
「ああ、やっぱりあるんだそういうの…」
「定時に帰った上司のプログラムがバグ吐いててね、うふふ」

あ、怨み話が始まった。こんなにも明るく愚痴を言われているだなんて現在石化中の元上司は予想だにしていないだろう。

「あ、有給中にバグ出たからって呼び出されたこともあるよ」

にこりと笑いながらそう話すが、三千七百年越しの温め続けた酒の肴は少しだけピリリと辛い。どんなブラック企業だよ、とツッコミを入れていいものか悩んでいたら近くで食事をしていた千空が「テメーならもうちょいマトモな職場あったろ」と声をかけてきた。

「僕もそう思うけどな。転職とか考えなかったの?」
「海…」
「えっ」
「海、好きだから…」
「うわ、出たよ海」

千空が呆れたようにそうぼやくと名前は千空の頭をぽんぽんと撫で始める。千空は顔をしかめながら「えへへ、海好きだからねー」とうざ絡みする彼女から脱出して毎日聞かされんだよと僕に文句を言うと逃げてしまった。
年下にちょっかいをかけはじめてしまったのでいよいよ酔いが回っているのだろう。ふらふらしながらまたお酒を口にしようとするものだからしれっと水と入れ換える。これ以上は良くないな。知らなかったとは言え、飲ませてしまったものだから約束通り責任をとろう。…こんなところ一人で歩かせるわけにはいかない。

「そろそろ部屋行こうか」
「まだ羽京くん全然飲んでないじゃない」

首を少し傾げて顔を覗き込む名前の真っ赤な顔、いや顔どころか首まで赤い。こんなに弱いとは思わなかった、そりゃ送ってくれる人がいないとお酒を飲もうとは思わないはずだ。

「いいから。明日も朝早いんだしさ」

そう言って彼女の手を取る。周りのざわめきの話題の中心が僕らになってしまった、全部聞こえてるからねと言ったら静まりかえるだろうか…。
そんなこともお構い無しで「行かないの?」と首をかしげる。僕の腕に抱きつきすり寄る名前は完全に注目を集めている。いや、いいんだけどね僕は。なんとなくみんな勘づいているみたいだったし。ただ、明日目が覚めた名前の記憶が曖昧なことを祈るよ。

さて、どうしたものかと名前を部屋まで連れていくために歩く。案外しっかりした足取りに安心しつつ、ぽやぽやと笑う彼女に危機感。この間、ずっと前職の話をしているものだから相当恨みがあったのだろう。聞いているこちらも胃が痛くなりそうな経験ばかりだ。
しかし、今はそれどころではない。今僕は付き合って数ヶ月になる彼女の部屋に彼女を連れて向かっているのだ。ああ、彼女の部屋が相部屋じゃなかったら完全に据え膳だったな。

「羽京くん聞いてる?」
「聞いてるよ」

一言も聞き逃していないのは事実。ただ、頭に入ってこないだけだ。それにしても名前に危機感がなさすぎるのは如何なものか。いや、完全に信頼してくれている証拠だと思っておこう。
彼女への相槌もそこそこに、かなり考え込んでいたら彼女の部屋前までついてしまった。ただいま!と元気よく部屋に飛び込む名前の背中を見つつ、やれやれと軽くため息。
名前と同室の南ちゃんに断りを入れておくか、と一応ドアにノックをして部屋に入るともうベッドに沈んでいる名前。そして一方の南ちゃんは留守にしているようだった。ああ、これはやられたな。きっと名前が酔っているという情報を得て、隣の部屋で杠たちと聞き耳でも立てていることだろう。
今にも眠りそうな名前の赤い頬を撫で、「水持ってこようか?」と聞くと僕の手をぎゅっと握り「大丈夫」とうとうとしながら答える。ああ、これはまずい。
とろんと眠たそうな瞳にぐ、と感情を抑える。落ち着け、僕。相手は酩酊状態だぞ。しかも隣で確実に女の子たちが聞き耳を立てている。さっき南ちゃんと杠のひそひそ声が聞こえた。いや、みんな僕の耳のこと知ってるよね?詰めが甘いよ…。

「ほら、おやすみ」

そう言って布団をかけようとするとくいくい、と手を軽く引っ張られる。よりによって今そんなにかわいいことをしなくてもいいのに。別にこの距離でも聞こえるんだけれど、彼女の口元に耳を近づけて「どうしたの?」と問う。

「…しないの?」

ぐう、人の気も知らないで。
こんな状況もう二度とないかもしれないと考える自分が浅ましい。が、相手は酔っぱらい。しかも恋人とはいえ自分が飲ませた相手だ。そして左隣の部屋では空気をきちんと読んで聞き耳を立てている女の子数名。
というより、名前が送り狼を誘導したことに驚いている自分もいる。てっきり興味ないのかと…ああもう、考えがまとまらない。

「今日はもうおやすみ」

とりあえず、今日はダメだ。こんなに酔った状態の彼女を丸め込んで抱くことなんてできない。名前の唇に優しく口づけてさらりと髪を撫でる。いつもより熱い唇とお酒の匂い。手を握って頭を撫でてやると、少しだけ唸ったあとにすやり、と目を閉じた。
あ、危なかった。これほどまで自分の理性に感謝する日は今後こないだろう。ああ、もう、今からお酒を飲み直そう。今日ばかりはやけ酒をしても許されるだろう。
もう一度名前のおでこにキスをして「おやすみ」と呟いて部屋を出る。
そうしたら、

「意気地無し」

と、確かに彼女の小さな声が聞こえた。
ああもう、次はないからね。

公開日:2020年8月2日