海を愛する人

まだ辺りも暗い明け方、なんとなく目が覚めてしまってふらりと訪れた海岸に座り込んだ人影を見かけた。シルエットは女性に見えるけれどまだ日が昇っていないこともあり、誰か見分けることが出来ない。誰だろう、と目を凝らしていたらとても柔らかい鼻歌が耳を優しく包みこんだ。
ああ、名前だ。
僕に気づいていない名前は、誰もいないのをいいことに海風にあてられて鼻歌を歌い始めたのだ。…今声をかけたら逃げられてしまうだろうか?

「おはよう」

静かに近寄り背中にそう声をかけるとびっくう!と体を強張らせてゆっくり振り替えり僕をぱちくり見る可愛い人。相当びっくりしたのだろう、胸を押さえて「う、羽京くん…」と言葉にならなかった声を出す。良かった、逃げられずに済んだ。

「おはよう、びっくりした」
「あはは、ごめんね」

隣いい?と確認を取るともちろんと返事が返ってくるけれど声が少し上ずっている。ああ、からかいすぎたかなと思いつつ普段見ることができない余裕のない表情に「かわいいな」なんて感情を抱いた僕を君は許してくれるだろうか。伝えたら数日は口を聞いてもらえなくなりそうだ。
名前の隣、砂浜に腰かけて「鼻歌で君だと気づいたよ」と口にすると「まさに彼は誰時だね」と今の時間帯を的確に表す。まだ暗い海を眺めている彼女の横顔は穏やかで、いつもに増してなにを考えているのか読むことができない。こんな距離感だが、一応僕らは恋人同士だ。いつもニコニコしていて表情が読めない名前にダメ元で「好きだよ」と伝えた日が懐かしいな。そういえば毎日に忙殺されて彼女と二人きりになるのは告白したあの日以来かも。
…沈黙の中、なにか気の効いたセリフを吐こうにもこんな薄暗い世界でなにが言えたものか。あれこれ悩んでいたら名前が先に口を開いた。情けない。

「羽京くんタコ釣ったことある?」
「タコ?」

思いがけない話題に思わず笑うと名前も釣られて笑う。ふふっと小さく漏れた息を吸って懐かしむような瞳と優しい声色で話を続ける。

「昔ね、会社の行事で上司に無理矢理タコ釣り漁船に乗せられて」
「っふふ………う、うん…」
「朝二時に起きて五時出航。バカみたいでしょ?」
「あはは!どんな会社だよ!」

お昼までずっとタコ釣ってたの、毎年。
その言葉が完全にトドメとなってしまって声を上げて笑う僕に「だから私、タコなら捌ける」とドヤ顔。もう数ヶ月は一緒にいたはずなのに知らなかった彼女の意外な一面とアグレッシブな経験に笑いが止まらない。

「君、プログラマーじゃなかったっけ?」
「そう、海洋機器を担当していたの」
「ああ、なるほど」

海が好きだと笑う名前は海岸でよく海を眺めていて、その横顔に惹かれたものだから彼女が海に携わる仕事をしていた事実にやけに納得してしまった。きっと彼女の上司もこの笑顔に絆されて連れ回してしまっていたんだろう。確かに、僕もこんな部下がいたら可愛がってしまうだろうな。
ああ、彼女によく似合う、やりがいのある仕事だったんだろうなぁ。

「毎日残業ばかりで、会社なくならないかなって思ってたら欠片も残らなかった」

…思ったよりも深い怨みの吐露を聞いてしまったが、聞き流そう。お酒が入ったほうが面白い話が聞けそうだから、また今度。
さて、どうやって話題を変えるか。そんなことを考えている一瞬、僕が黙ってしまったものだから手を振って「違うの、仕事は楽しかったのよ」と慌てて訂正をする。

「…全部なくなったけど、海だけは変わらなくて安心するの。」

ちょっぴりだけ瞳が寂しさに揺れたが、すぐにいつもの微笑みを取り戻した名前の長い髪がさらりと風に拐われる。思わず彼女の頭を自分の肩に引き寄せ、手をぎゅっと握ると「ふふっ」と柔らかい声。名前は余裕みたいだけれど、こちらにそんなものは一切ない。いつもより近い距離に心音を悟られてしまったら格好がつかないな。

「羽京くんの隣も安心する。」
「あんまりかわいいこと言わないでよ。」
「今だけは独り占めさせてね。」

すり、と肩にすり寄る名前が愛しくてたまらない。大人だからと人に頼るのもそこそこにいつも人に頼られている、優しい人。初めて聞いた弱音も海にすぐ溶けてしまった。そんな名前が僕に初めて甘えている、こんなに嬉しいことはそうそうない。
太陽はまだ出ていないけれど、空が少しずつ明るくなって名前の顔がよく見える。いつもよりも紅潮した頬にこちらまでドキリと心臓が高鳴る。…お互い背伸びしていたなんて、笑えてきちゃうな。

「一日が始まるね」
「そろそろみんな起きてくるかな?」
「そっか、そうだよね…」

名残惜しそうにそう呟いてゆっくり名前が離れていこうとするのをぐいっと引き留める。僕の「もう少しだけ」を受け入れた名前の体重を肩が再び受け止めると、ずいぶん遠慮がちにおずおずと名前の指が僕の指を絡めてとる。

「毎日忙しくて楽しいけれど、もう少し羽京くんとこうやって過ごしたいな…」
「えっ」

予想だにしなかった名前のかわいいワガママには満たない呟きに声を上げてしまう。まさか名前がそんなことを考えていただなんて。

「今は忙しいから無理なんだけどね」
「…あぁ、そう、そうだね…」
「なんで羽京くんのほうが残念そうなの?」

毎日二人の時間を作ろう!とは言えない不甲斐なさと、名前の切り替えの早さに情けないくらい力ない声が出た。復興するまでは、という呪いのような言葉が僕をどうしても冷静にする。名前も口にはしないけれど同じようで、きっとみんなが起床すればいつも通りの「頼れるお姉さん」に戻ってしまうんだろう。

「じゃあさ」
「うん」
「全部終わったら、海の近くで二人で暮らそうか」

今約束できそうな代替案を口にすると、微笑んでいた名前の目がまあるく開く。数回僕の目を見たままぱちぱちとまばたきをして、繋いでいないほうの手で口元を隠す。そして彼女にしては珍しくまごついた様子で口を開いた。

「それってプロポーズ?」

しまった、そう捉えられてしまっても文句は言えない。いや、確かに将来的には結婚を考えていたけれど、もっと言い方があっただろう!それこそ復興したあとに花と指輪を用意して、もっと雰囲気を作ったあとで、満を持してプロポーズできたはずだ。

「そんなに動揺しなくていいのに。」

クスクス、と笑いだしてしまった名前。そんなにしどろもどろしていたのだろうか、まいったな、本当にカッコ悪いやつじゃないか。

「…とりあえず、さっきのお返事してもいい?」

名前の顔には相変わらずいつもと同じ優しい笑みが浮かんでいるが、いつになくお喋りだ。握った手をもう少しだけぎゅっと握るとそれに応えて名前の手にも力が入る。波の音に乗ったあのね、とふわりとした柔らかい声が愛しい。

海を愛する人

どうか隣で笑ってて。

公開日:2020年8月2日