おすそわけコットン・キャンディ 前編

リクエスト内容:「コスメ好きと科学少年の話」の初キスの話


まばたきするたびに揺れる長いまつげとよくよく見ないとわからないくらい大人しく乗せられたベージュ。頬は白い肌には血色が良く見える程度のうっすら桜色。唇は艶々と光を集めているものの、色はついていないように見える。
いわゆる高校生らしい「ナチュラルメイク」をキメた女は、先ほどから俺の隣できっちり描かれた眉を真ん中に寄せながら「うーん…」と漫画のように頭を抱えていた。控えめな色で遠慮がちに構築された顔面には苦痛に近い表情が浮かんでいてたまに呻いたり遠くを眺めてみたりと忙しい。
さて、なぜ名字がここまで一体なにに追い詰められているのか。説明するのも面倒なくらい単純な話ではあるんだが…。

「追試合格したら新しいリップ買うんだ…」
「死亡フラグ立てんな」

期末試験で数学赤点をとってしまった結果、メイクする暇あんなら勉強しろと教員からガチめの説教を食らってしまったからである。

俺たちが所属している広末高校はいろいろとクソゆるい。メイクしようが制服着崩そうが白衣着ようが授業中にスマホ見ようがお咎めなし。派手なネイルも顔面も、なんなら俺の髪型や髪色も個性つって受け止める寛大な高校だ。教員も体裁を保つ程度の注意しかしてこねえこの環境で、俺の彼女様は勉強ができなさすぎて…つーかテストの点数が悪すぎて遂にお叱りを受けてしまったわけだ。

「あ゛ぁ?補習になんねえように頑張んだろうが」
「顔が地味で力が出ない…」
「んなアン〇ンマンみてえなこと言われても困るわ」

数日後の追試で再び赤点を取れば補習コースを宣告された名字はせめてもの誠意のつもりなのか、お叱りの翌日からド派手メイクを封印。そして「石神くん助けてください…」と泣きついてきたことから経緯を知らされ爆笑しながらも放課後の勉強会を快諾した。…断る理由なんざねえからな。

そうして迎えた放課後、真剣に数学の課題と向き合って一喜一憂している彼女様のレアな横顔をスマホをいじっているフリして盗み見て人生を浪費していると言えば、誰か、杠あたりが笑ってくれるだろうか。
正直、名字の薄化粧は珍しい。…ぶっちゃけ俺としては当分このままで良いと思っちまってるが名字にとっては死活問題。時折思い出したかのように鏡やスマホのインカメで顔面をチェックしては「うわっ…」と自分のツラに驚き、信じられないようなものを見たような声を上げている姿を見てしまってはこの状況を楽しんでいるだなんて口が裂けても言えはしなかった。

「ほら手ぇ止まってんぞ」

先程から進捗が止まっていることを指摘してやると名字の肩がぴくっと跳ねた。とある問題で詰んでから485秒、彼女のペンはノートを走るのを止めている。数式すら出てこないのか完全にお手上げと言わんばかりに頭を抱えている名字が「頭も動いてないよ」となぜか自信満々、誇らしげに現状を告白する。

「ドヤ顔やめろ」

そう咎めてポコンッと丸めたノートで名字の頭を軽くシバく。それに大袈裟に痛いと騒いでは観念したように再び問題と向き合った。
解き方くらいいくらでも教えてやれっけど、さすがに自分でちったぁ考えねえと意味がない。そう心を鬼にして彼女の奮闘を見守っているが戦況は芳しくない。

「これ絶対先生が解き方言ってたんだよね…」
「そりゃ教えてねえモン課題にしねえよ」
「確かに…!石神くん頭いいね?!」

名字がぱああっと表情を明るくして賢い~と呑気に笑う。その笑顔にきゅうと心臓がやかましく鳴いた。こいつ自分の状況わかってんのか?!と呆れ半分、そんな所も彼女の愛嬌だと諦め…いや、愛しさ半分。結局俺は名字にクソ甘い。

「しゃーねーなぁ、貸せ、これはこうやって解くんだよく覚えとけ馬鹿」

そう宣言して名字のノートに解き方を書くために体を近づける。瞬間にふわりと香る砂糖みてえに甘い匂いが鼻腔をくすぐっては、思わず体を硬直させてしまった。一瞬止まる思考とグラついた理性を大きく息を飲み込んで黙らせればヤケに落書きの多いノートにペンを走らせる。

「この問題はこの数式当てはめんだよ」
「ほええ…」

気の抜けた声がずいっと俺に体を寄せる。少し動けば肩と肩がぶつかる距離、視線を上げれば真剣にノートを眺めてふんふん俺の書いた数式を追っている大きな瞳。息がかかってしまいそうなくらいの至近距離にぎょっと目を見開いた俺のことはお構いなしに「じゃあここの計算はこうなるよね?」と素直に疑問をぶつける彼女様が俺に顔を向ければばちんっと視線がぶつかった。

「石神くん?」
「…あ゛~、その通りだやるじゃねえか」
「ほんと?やった」

思わずフリーズしてしまった俺の名前を不思議そうに呼んで正気に戻すとなんでもなかったように元の距離まで体を離す。お勉強に真剣なのは良いことだが俺だけ振り回されてるみてえで釈然としない。ふう、とようやく息を吐いた俺を見向きもせずに次の問題に挑もうとしている名字の姿に少し頭を冷やしてくるかと「あ゛ー、」と歯切れ悪く逃げ出す口実を呟いた。

「飲みもん買ってくるわ、なんかいっか?」
「ミルクティー!」
「あいよ」

片道2分弱のリキャストタイムを確保した俺は科学室から飛び出すと頭をボリボリ掻きむしりながら必死に平静を装った。背中からは呑気な「いってらっしゃ~い」なんて声。それに誰のせいだと、と悪態が飛び出そうになるのを飲み込んだ。

と、いうのも、あのアホ可愛い彼女様とふたりきりで勉強をしていて何も思わねえほど俺も枯れた男じゃねえワケで。
夕日の差し込む科学室の隅、真剣に問題とにらめっこする横顔やくるくる変わる表情、やけに甘ったるい香水の匂いが脳裏に焼き付いて離れない。名字は散々顔面の出来を地味顔だのなんだのと文句を垂れ流しているが俺にとっちゃ些細な問題だ。どんな顔面でも可愛いモンは可愛い。…あ゛ー、つまり、彼女様の前では俺も所詮ひとりの男に成り下がるってこった。

「どーすっかな…」

思わず呟いた独り言は誰も居ない廊下に響いて消えた。名字と付き合い始めて早半年。距離を測りかねて戸惑ったり手を繋ぐだけでガチ照れしたり、色々忙しく過ごした俺たちはゆっくりだが恋人になっていった、んだと、思う。少なくとも俺にとって真っ直ぐな太陽みてえなあいつはもうとっくに日常の一部に居座っていておいそれと切り離せる関係ではなくなっている。だからこそ、「次」に中々踏み出せない。

「(つっても半年キスすらしてねえのはさすがに情けねえだろ俺…)」

あいつは俺とふたりきりでもなんとも思っちゃいねえんだろうな、と思うとなんだかヤケに胸がムカついた。こちとらド健全男子高校生様だぞ。とびきり可愛い彼女とふたりきりとなれば、色々期待してしまうのが性なわけで。
いつも丁寧に彩られている唇が視界に飛び込むたびに浅ましい欲が湧き上がっては、それをぶつけることにビビっているチキン野郎が場を諌める。今までキスしちまえそうなタイミングはいくらでもあったのに、名字に拒絶されることを恐れては一歩が遠かった。

「(…あいつはどう思ってんだろうな)」

いっそ、半年もキスすらできねえ情けない男だと糾弾してくれりゃいいのに名字からそんな素振りを見せたことはない。いつもニコニコ、俺と一緒にいるだけで楽しいと犬みてえにしっぽをぶんぶん振って幸せそうにしている姿ばかりを思い出すもんで、不満すらなさそうに見える。俺とこれ以上の関係を持つ必要を感じていないような態度にモヤモヤと胸の内が曇っていくをありありと感じ取ってしまってはまた頭を抱えた。…あ゛ぁ、合理的じゃねえ。

そんなことをぼんやり考えながら廊下を歩いた先の目的地にたどり着いた俺は自販機にスマホをかざしてまずは名字のご希望通りミルクティーをゲット。名字はこの自販機で売られているミルクティーをよく片手に教室に飛び込んでくる。曰く、甘さとミルク感が絶妙らしい。相変わらずのリクエストに思わずひとりで「ククク…」と喉を鳴らしては随分と名字に思考を奪われていることを思い知らされた。
俺はどうすっかな、と自販機のラインナップを眺めてはいつも通りエナドリを選択するために指を伸ばす。ボタンを押す直前にピタリ、動きを止めれば「たまには、な」と再びミルクティーのボタンを押した。別におんなじモンが飲みたかったわけではない。が、気まぐれに、あいつがいつも飲んでいる飲み物の味を知りたいと思いついてしまえばその欲求に勝つことはできなかった。

「戻ったぞ」

そう声をかけながら科学室の扉をあけるとまっすぐな姿勢で課題と向き合っていた名字の顔がバッと俺の姿を捉えるために上を向いた。そして目を細めて穏やかに「おかえりなさい」と微笑む。名字が待ってましたと言わんばかりにちょいちょいと手を動かして聞いてきいて!とたった数分の隙間をソッコー埋めにかかるもんだから思わず口の端が緩んでしまった。

「見てみて!この問題解けたかも!天才!リップ買って良い?いいよ!」
「間違ってんぞ」
「私は馬鹿です」

堂々とノートに書いた解答を見せつけてきた名字を瞬殺するとすぐに項垂れる。その姿が面白くてケラケラ笑ってやると「勉強向いてない…」と泣き言が漏れた。

「初っ端の計算から間違ってんじゃねえか、小学生からやり直せ」
「ひーん…」
「解き方は合ってる」
「本当?」
「こんなことで嘘言わねえよ」

解き方さえわかってりゃ良いんだよ、と落ちた名字にボヤきながらスッピンに近い頬にピタリ、ミルクティーのを押し当てた。いきなりのひんやりした感覚にびっくう!と体を跳ねさせる姿を見下ろして「ククク…」と声を漏らすと「も~!」と少し頬を膨らませる。

「いじわる」
「悔しかったら追試どうにかしやがれ」

仰る通りです…と眉を下げた名字に紙パックを手渡してやると「ありがとう」とそれを受け取った。そのまま視線が俺の手元で止まって、「へ、」と間抜けな声が上がればぱくぱくと色付の良い唇が言葉を吐き出す。

「石神くんもミルクティー買ったの?めずらし…」
「あ゛?あ゛ー…たまにはな」

そうぼやいて紙パックにストローをぶっ刺していると「んへへ」とやけににやけた声が名字から漏れた。その声に「んだよ」と疑問をぶつけると先ほどまで不服そうに膨らんでいたはずの頬が緩み切っていて面を食らってしまう。

「おそろいだね」

こんななんでもないことを「嬉しい」と大袈裟に喜んで同様にストローを紙パックに差し込んだ名字。一日中メイクが嫌だの勉強が嫌だのぼやいていた彼女がこんなくだらないことで、にへら、と顔全体を緩ませている。そのまま上機嫌に、俺がいない間にリップを塗り直したのかヤケにツヤツヤした唇にストローを咥え込んだ。そして思考が追い付かずに答えを出せずにいる俺をほっぽって再び課題に向き合ってしまった。

「(ド天然タラシ様すぎんだろ…)」

散々振り回して俺の思考を止めておいて、自分はすっかり自分のペースを守っている。その余裕を崩してやりたかったが、いかんせん課題中の人間を妨害する趣味はない。また後手に回ってしまったことに気づいてから口に含んだミルクティーはまるで味がしなかった。

そこから課題と格闘すること数十分、ようやく課題が終わったのか名字が大きな音を立ててペンを机に置いた。そのまま「もう二度と勉強しない」と不吉なことを呟いて課題をやり遂げた事実を噛み締める。そんな横顔に「お疲れさん」と労いを吹っ掛けると本当に疲れたのかぐったりした表情を俺に向けてくる。…こんなんじゃ追試までもたなそうだな。

「採点お願いします…」

本番はここから、と言わんばかりの絶望顔を隠すことなく俺にノートを突き出す。そのノートに視線を落とすと相変わらず整っているのにどこか丸い、彼女の文字が羅列されている。…ところどころミミズが這ったような文字で恨み言が綴られているのは見なかったことにした。
課題をざっと頭で計算して名字の解答と照らし合わせては、その正答率に思わず目を丸くした。正答率6割。追試であればギリギリ合格に滑り込める点数だが…今朝、たった10点ぽっちしか取れていないテスト用紙を掲げていた女とは思えない。正答率6割は決して褒められたもんじゃねえが名字の勉強アレルギーを鑑みれば飛躍的な進歩だろう。…マジでよく頑張ったな。

「え、もしかしてめっちゃ間違ってる…?」

俺の反応をマイナス方面に捉えた名字が不安そうな声を上げる。それに歯切れ悪く「いや…」と返事しつつ、思わず彼女の頭に手を伸ばしてしまう。そのままわしわしっと乱暴に頭を撫でてやれば、ようやく「ククク、やりゃできんじゃねえか」と名字を手放しで褒める言葉を吐き出した。

「え?!天才?!」
「天才天才、追試もこの調子で頼むわ」
「もっと褒めて~!」

俺の手を両手で包んで頭をもっと撫でろと強要する。その手を受け入れながら名字の頭を撫でるとそのたびに満足そうにふふーんと鼻を鳴らした。…マジで犬みてえだなこいつ。

「にしてもいきなりレベルアップしすぎだろテメー」
「だって、石神くんと早くおしゃべりしたかったもん」

勉強の話なんてつまんない、と柔らかく笑った名字に思わず指が硬直する。なんの答えにもなっていない回答はただただ俺の胸に刺さって、ぐるぐると頭の中で反芻されていく。

「あ゛~…百億万点やるよ」
「じゃあ追試も余裕だね!」

俺がくれてやった点数なんてなんの意味も持たない。それなのに俺が言うなら間違いないと呑気に笑って、もっと褒めろと自ら頭を手のひらにぐりぐり押し付けてくる名字。彼女の髪の匂いにグラつく理性の手綱を握っている俺に対して、あろうことか「石神くんの手、あったかくて大好き」なんて笑った。目を細めてにっこり自信たっぷり口角を上げながら本当にお幸せいっぱいと言わんばかりに柔らかく緩んだ彼女の顔は、なんつーか、柄でもねえがキラキラして見えた。

その表情に、声に、行動に、俺の中でプツリとなにかが途切れた音がした。

「名字」

そう彼女の名前を呼びながら髪を撫でる。さらりと長い髪を滑って顔の横まで手のひらを持っていくと彼女の肩が小さく跳ねた。透き通った肌に指を這わせて、そのまま親指で唇に触れる。子どものように称賛を強要していた名字も俺の雰囲気や行動にみるみるうちに顔を真っ赤に染めていく。意味がわかったのか、少し不安そうに石神くん、と鳴いた彼女に「…いいか?」とこの期に及んで確認を取った。
嫌なら拒否してほしい。まだこのままでいたいならそれでも構わない。ぐるぐる回る理性と欲が混ざり合って溶けていく。拒否するなら早くしてほしい、とビビっている俺と、耳まで真っ赤にして目を回している名字の沈黙が数秒流れていく。

そうしてようやく動いた名字の指が、ガラ空きだった俺の指に触れた。そのままぎゅう、と指を絡めれば彼女の唇がかすかに「…いいよ、」と泡のような言葉を吐き出した。
伏せた瞳がちら、と俺の瞳を覗き込む。そうしてゆっくり数回まばたきをしたあとに覚悟を決めたように瞼を閉じる。据え膳に思わずごくり、生唾を飲み込んで絡めた指を改めて強く握った。そのとき、名字の指が少し震えているのがわかってしまっては、ばくんと大袈裟に心臓が鳴った。ばくん、ばくん、と全身に響く心音。あまりにもうるせえそれを黙らせたいのにこの状況がそれを許してはくれない。
ゆっくり顔を近づけていくと次第に鼻孔に飛び込む甘い香り。硬直した名字から香るその匂いに最後の理性を手放すと、彼女の唇に触れようと瞳をゆっくり閉じる。

そうして、あと数ミリで唇同士が触れ合う瞬間、

「千空ーッ!!名字さーんッ!!課題は順調か?!」

心音よりも大きな、どんな声よりも聞き慣れている声が科学室に飛び込んできた。
その声に瞬間的に反応したのはもちろん名字で、名字の手がバッと俺の手を放すとそのまま超スピードで椅子を離す。体の距離を取ってすぐにノートをバッと広げる。そうして何事もなかったかのように「た、大樹くんだ~!」と笑って見せた。
もちろん俺は硬直したまま、ギギギと無遠慮に飛び込んできた幼馴染の方向を睨み、行き場のない「大樹テメー…」と吐き出すことしかできない。

「大樹くん来てくれたんだ」
「名字さんが課題に苦しんでるって千空から聞いてな!」
「え!嬉しい!ありがとう~!」

俺が乱した髪を必死に整えながら大樹の相手をする名字。あせあせとせわしなく手を動かしてきっちり髪を整えるとそのまま手でピースを作って大樹に向ける。「課題終わったよ!」と明るく報告する様子はいつもの可愛い代表そのものだ。

「てかもう外暗いね?!そろそろ帰らなきゃ」
「あ゛~、そうだな送ってくわ」
「俺もついてくぞ!」
「いいよいいよ、帰り寄りたいとこあるし!」

そう俺たちの提案を断って大急ぎでノートやらペンやらを鞄に仕舞い込んでいく。そうしてマッハで「じゃ、また明日!」と科学室を飛び出した名字の背中をぽかんと眺める他ない。…あ゛~、こりゃやらかしたな。

「…もしかして邪魔したか?」
「…いや、むしろ助かったわ」

さすがに名字の反応がおかしいことに気づいた大樹が俺に申し訳なさそうに言葉を投げる。それに気にすんなと返すと、俺らも帰っぞとスマホを白衣のポケットに投げ入れた。
邪魔に決まってんだろ、ふざけんなテメーなんちゅータイミングだよ。そう糾弾したかったがそれどころではない。
…大樹が飛び込んできた時の名字の横顔が、あまりにも安心したような表情をしていたもんで。そんな表情を見てしまっては、大樹を糾弾することなんて到底できない。…やっぱちょっと早かったか?自分の欲を押し付けてしまっただろうか。せめて追試が終わるまで…あ゛ークソ、んなこと考えたって答えなんかねえのにな。

「数学くらい単純なら良かったんだけどなァ…」

そうぼやいた言葉はどこにも届かない。

公開日:2023年7月23日