手探りなふたりの何気ない一日 午後

冷たい風が全身を撫で上げて体温を奪う。先ほどまで身に纏っていた制服と白衣を脱ぎ、体操服なんていう防寒しようがないものに着替えた俺は外でひたすらに震えていた。
こちとら脂肪がなければ体力もない。この寒空の下、ただただ為す術もなく震えながら準備体操を終えた俺は体育の授業を極力サボるべく気配を消していた。そもそも準備体操ごときで体が暖まるはずもなく、手足はかちんこちんと固まったまま震えている。そんな状況で球なんか蹴ってられるか!と大樹にすべてを押し付けて外野で丸く座り込む選択しかない。

「石神上手くサボったな」
「テメーもだろ」

サッカーのチーム分けから逃れ、ゲームが終わるまで待機という名のサボり権をゲットした俺はグラウンドの脇、体育館の横にある階段に腰かける。コンクリートでできたそれは信じられないほど冷たく、声にならない寒気が尻から頭まで走った。
そんな俺に話しかけたのは俺同様にチーム分けから逃れた科学部の奴だった。お互い体力はないもんで、体育のたびによくサボる仲間として会話もそこそこに弾む。

「女子は体育館でバレーボールかぁ」
「あ゛ー、そっちも地獄だわ」
「千空、球技とことん駄目だもんな。顔面レシーブだけ完璧」
「うっせ」

体育館からは床とシューズの摩擦音とボールが床に叩きつけられる音、そしてきゃいきゃいはしゃぐ女子たちの声がする。少しだけ体育館を覗きこむとすぐに楽しそうに頬を紅潮させながら笑っている名字が視界に飛び込んできた。
このクソ寒いのに半ズボンで動き回る名字を見て、俺まで寒くなってくる。すらりとした足は白く、ひどく冷たそうに見えてしまって余計に温度を感じない。…あいつ、あんなに足出してて大丈夫なのかよ。

「おーおー、一生懸命カノジョ見るじゃん」
「そんなんじゃねぇよ」
「朝からいちゃいちゃしやがって羨ましい!」

俺らの名字さんだぞ!と謎の主張をされて思わず「俺のだ」と主張し返しそうになる口をぐ、と紡ぐ。柄にもねぇことは言うもんじゃない。それが事実だとしても、だ。

「朝すっごく仲良さそうだったけどなんの話してたんですか?」
「あ゛?聞いてどうすんだ」
「妬みの対象にします」

なんだそりゃと呆れながら内容は答えない。話したところでなんの利益にもならない上に、俺があいつに振り回されていることなんて知られたくもない。
まず、朝あいつを見たときに見慣れない服装に頭を殴られたような衝撃が走った。少しだけ緩い袖によって半分隠れる手。制服の上着のボタンは開きっぱなしでそこから見える藍色のカーディガンと大きいボタン。そしてそれがたまらなく嬉しいと言わんばかりににこにこと緩んだ頬。
そんなあいつが本当にかわいくてどうにかなってしまうかと思ったもんだ。そしてそれを素直に伝えたところ軽く流されたもんだから都合が悪い。杠に「ちゃんと名前ちゃんのこと褒めてあげないと駄目ですからね」と釘を刺されたもんで、きちんと言葉にしているつもりだが、どうもお互い背伸びをしているようで居心地だって悪い。

「実際あんな可愛い彼女いたら毎日楽しいっしょ」
「まぁな」

ここは否定しようがない。毎日飽きもせずにいろんな話をくるくると変わる表情を見せながら身振り手振りで話す名字はかなり可愛い。それに相槌を返すだけで嬉しそうに笑う顔も返事次第では赤らむ顔も、たまに見せる唇を突きだした不機嫌な顔も好きだ。
そんな名字の隣は退屈している暇なんてない。毎日変わる瞼の色や唇の色、たまに短くなる前髪や気づけば変わっている爪の装飾。それに気づくたびに彼女の内面を知った気分にもなる。
まぁ、あいつが俺と会話を楽しんでいるかは知らないが、俺はそれなりにあいつとの時間が楽しくて仕方ない。

「で、どこまでいったんだよ」
「なにがだよ」
「もうキスくらいしてんだろ?」

その無粋な言葉に目を見開いたあと、返せる言葉がなくて奥歯を噛む。俺の反応がない様子を見て鋭い言葉が驚きと共に俺の耳に届いた。

「まだなの?!もう付き合って一ヶ月くらい経ってねえ?まさか科学にしか性欲がわかない?!」
「んなわけねーだろバカか!」

直近の悩みに対してそう言われてしまって思わず声を荒げる。そう、それなりに上手くやっているつもりなのだ。名字も不満なく俺と付き合っているように見える。それでも一歩、俺の踏ん切りがつかないのか名字のかわし方が上手いのか。
…いや、俺だな。完全に俺が後手に回っていることが原因だ。そもそも髪や手に触れるだけでまだあたふたと頬を赤らめる名字に「キスがしたい」と伝えたらどうなるのか。んなもん考えなくてもわかる、あの俊足で逃げられるに違いない。

今日だって「髪をおろしたところが見たい」と言われて一瞬「俺んち来るか」と口走りそうになったのを理性が止めた。家なんかに連れ込めば髪の状態を見せるだけではきっと済まない。つまり、俺もただの男だっつーことだ。そして不幸なことに名字はそれに気づいていない。
それなのにその言葉が出せなかった時点で手をこまねいているのは俺だ。逃げられないようにしてしまえば名字だってYESかNOくらい口にするはず。それでも、その一歩が遠かった。

黙りこくった俺に対して哀れな男を見るような視線が突き刺さる。体育をサボっている身分で待遇の改善を要求することなんざできないが、あまりにも素直な視線に抗議をしても許されるような気分になった。

「千空も苦労してんだな…」
「うるせぇよ」

そう視線から逃げるようにもう一度体育館を覗き込む。ちょうど名字がコートに入って体育を満喫しているところだった。よくもまぁ体育なんて憂鬱な授業に対してああもニコニコしていられるものだ。
バレー部でもないのに余裕ありげなサーブを相手のコートに叩き込むと軽い足取りでコートに戻った。あいつ球技もできんのか、と感心していたら仕返しと言わんばかりにスパイクが名字目掛けて飛んでくる。
それを軽くオーバーで受けてセッターへ運ぶ姿に唖然とした。俺にとってその動作は顔面レシーブの確率100%の難関動作だからだ。運動神経チートだとは思っていたがここまでとは。唖然とした俺を置いてボールは宙に弧を描きながら綺麗にセッターへ落ちていく。
そしてそのボールが手から離れてもと来たルートを辿ろうと宙に浮かんだ最高到達点に、地面から足を離して跳ねた名字がいた。
バシンと重い音を立ててコートへ叩きつけられるボールに、キュッと軽く着地音。歓声と名字の「いえーい」というゆるい声が体育館に響く。

「チートじゃん!」
「いやぁ運動だけが取り柄ですからー」
「バレー部じゃないのにバックアタックしないでくれる?!」
「ふふーん勝つためには手段を選ばず!」

チームメイトとハイタッチをしながら相手チームのやっかみを受け流す名字。いやいや、どんだけチート様だよ。さすがに設定盛りすぎだろと呆れながらその光景を見ているとぱちり、大きい瞳と目が合った。
数回驚いたように長いまつげが上下したあとに口角をにい、と上げて目を細める。そして俺に向かって誇らしげにピースを作った左手を突きだした。

「名前どうかした?」
「ふふーん内緒!」

そんな会話が聞こえてまた授業に戻ってしまった名字。その横顔が、先ほどの笑顔が瞼の裏に張り付いて消えてはくれない。
ぶわっと顔に熱が走るのを感じて思わず「あ゛ー、」と声を漏らしながら頭をかく。そんな様子を同じ部活の奴に見られてしまって、隣でやかましく騒いでいる声が聞こえる。

「名字さんマジ可愛いな、やっぱり天使じゃん」
「そーだよ可愛いんだよあいつ」

緩む口元をおさえながらそう呟くと隣の声がより一層大きくなる。驚嘆混じりの「千空がデレた」という言葉なんかより、先ほどから騒ぐ心臓のほうがうるさくて困った。
あのくるくる変わる表情に、俺にだけ見せるいたずらな口角、俺に向ける視線、すべてに自惚れてしまう。絶対にあいつは俺がここまで振り回されていることに気づいてはいない。まったく、いつも人騒がせなやつだ。

「ふたりともサボり?」

そんな声が背後から聞こえて振り向くと先ほどまで体育館で大活躍していた名字が俺たちに声をかけてきた。扉からひょこりと顔を出している名字を視認して、相変わらずデカイ目がぱちぱちと動くのを捉える。

「サボりじゃねーよ、待機だ待機」
「あはは、じゃあ私だけサボりだ」

そんなことを言ってシューズを脱いで外に飛び出してきた名字。「わ、外寒いね」なんて言う足はむき出しだ。そしてそんな足を畳むようにしゃがみこんだ。

「サボりってどういうことだよ、さっきまで楽しそうにしてたじゃねーか」
「ユズちゃんに押し付けてきた!」

えへへと頬を緩ませる名字。それにただ「そーかよ」としか返事ができない。あ゛ー、クソ、相変わらず名字のペースだ。

「名字さんって球技得意なの?」
「うーん、どうだろ。前にバスケットボール顔面キャッチしてから自信ないや」
「大丈夫、千空なんて毎回顔面キャッチだよ」

ぶっきらぼうな俺に対してにこにこしながらそんな会話を重ねているふたりを横目で見る。毎回顔面キャッチは事実だ、否定しようがない。むしろ名字の一度きりのそれなんてかわいいもんだろう。

「じゃあ石神くんとお揃いだ」

ふふっといたずらに笑ってそんなことをほざく。ああ、ほらな、こいつはいっつもこうだ。ド天然タラシ様は彼女になっても成りを潜めず、なんなら余計に威力を増しつつある。
この感情が恋だと、こいつが好きだと気づいたときからよりいっそう驚異的だ。効果覿面クリティカルヒット。それを悟られないようにするのにもそろそろ骨が折れる。

「ずっとここにいたの?寒くない?」
「死にそうだっつーの」
「かわいそう…」

私、ずっと動いてたから温かいよと言って左手を差し出してくる。あ゛ぁ?と息を吐きながらそれを握ると言葉通りにぽかぽかとした小さい手。乾燥しがちなこの季節につるつるした柔らかいそれで暖を取ろうとぎゅうと指先に少しだけ力をこめた。

「冷たっ、ほんと死んじゃうじゃん!」
「お元気いっぱいに走り回る体力もねぇしな」
「かわいそう…」

そう言って名字の指先にも力が入り、俺の親指を握り込む形で体温をわけようとしてくる。…授業中になにやってんだか、隣でそれを見ているサボり仲間の視線が痛い。
そこから数分、くだらない話をしていると体育館に響く笛の音が聞こえた。どうやら先ほどまで行われていた試合が終わったらしい。

「あ、そろそろ戻んないと。」
「おーおー、とっとと戻りやがれ」
「ふたりともちゃんと授業出なきゃ駄目だよー」

ぱっと手を離した名字に「せいぜい頑張れよ」と言葉を吐く。名残惜しさを感じない体温が離れる様子を軽口で乗り切る他ない。そうすると「蹴散らしてやりますよ」と存外逞しい返事が返ってきた。クソ、離れがたいのは俺だけかよ。
そのまま立ち上がり「じゃあね!」と笑った名字は駆け足で体育館に戻る。そんな背中を無言で見送った。

「距離感近くない?なのにキスまだってなに?」
「知るか馬鹿」

隣から聞こえる重い野次が胸に深く突き刺さる。どれだけ距離が近くてもそれに至るまでに乗り越えなくてはならない葛藤の数々をこいつは知らない。あと、名字の本気の逃走はとてもじゃないが追い付けないことも。…まぁ、一番の原因は名字に嫌われるのが柄にもなく怖いっつー女々しい理由だが。
いつからこんな恋愛脳になっちまったんだか、非合理的すぎるとため息をひとつ吐く。そしてもうとっくに体育館に戻ってしまった名字の姿をもう一度探そうとする俺に呆れ返った。

「いいですなぁ自分は彼氏とサボりですか?!」
「ごめんごめん、またケーキ奢るから!」

杠に糾弾されている名字はすぐに見つかった。確かに名字の代理を任せられたら誰でも同じ反応をするだろう。思わずクククと喉を鳴らして笑っていると、グラウンドに背を向けていた名字がちらりと振り返った。そして俺が名字を見ていることに気づくと照れくさそうにはにかんで小さく手を振るのだ。

その仕草と表情がたまらなく刺さる。やっぱり振り回されっぱなしなのは俺のほうだ。あいつにとっては何気ない行動でもそのひとつひとつにどうしようもない感情を抱いてしまう。…あ゛ー、やっぱ当分このままでもいいかもな。隣で笑っててくれりゃ、それで。
そんなことをやはり柄にもなく考えながら残りの憂鬱な体育の時間を消費するのだった。

公開日:2021年11月17日