おすそわけコットン・キャンディ 後編

「遅ぇ…」

思わず呟いたぼやきに似た言葉は放課後、人払いを済ませた科学室に静かに消えていく。科学室にひとり、ぼんやりスマホを眺めながら俺は赤点を取って追試を受けている彼女様の登場を今か今かと待ちわびていた。
あの勉強会から早数日、遂に迎えた今日は名字の追試が行われる日だ。つっても、放課後に突入して2時間が経過していてとっくに追試は終了している時間帯。なんなら採点が終わって結果が出ていてもおかしくない。それなのにいつまで経っても落ち込んだ名字も大喜びの名字も飛び込んでこねえもんだから、先ほどからソワソワと名字の来訪を待っているわけだ。

まさか俺に見せられないような頭悪ぃ点数とったんじゃねえかとか、補習が確定して俺に合わせる顔がねえんじゃねえかとか、それでどっかで頭抱えてんじゃねえかとか、ひとりの時間が長いほど嫌な想像が無限に沸いてくる。…それこそ、数日前にキス未遂を起こした俺とふたりっきりを避けてんじゃねえか、とか。そんな最悪を思いついてしまっては、頭を振って考えを消した。

「あ゛~…マジでやらかしたなァ…」

思い返せば思い返すほど数日前の自分の短絡的な行動のせいで頭が痛い。そもそも補習回避の勉強会でキス迫るなんて猿同然の発情期野郎じゃねえか。これだから恋愛脳様は合理的じゃねえ。
何度も繰り返した脳内反省会をもう一度終わらせるとデカいため息をひとつ。別にキスが未遂でもなんでも構わねえが、あの、名字のほっとしたような表情が脳裏に焼き付いて離れない。普段から俺のことを好き好き言ってくる奴にそんな表情をされてしまっては、思わず手を引っ込めてしまうのは当然で。

「(ちょっと距離置いたほうがいいかもしんねえなぁ)」

名字には名字のペースってもんがある。それを掴み切れずに早々に迫ってしまった俺はお手付き状態、一回休みに入ったほうが良いだろう。
そう思い至ってもう一度深い深いため息をついた瞬間だった。

勢いよく大きな音を立てながらドアが開いて見慣れた細い体が科学室に飛び込んでくる。その影は俺が反応を示す前に「石神くん!」とお元気いっぱいに俺の名前を呼んだ。

「追試合格したよ!」

目を奪われるほど鮮やかな青で彩った瞼と長くてゴキゲンに跳ねたアイライン。頬に咲くガーベラはラメを含んでいるのか艶々と光を集めて輝いている。なにより満面の笑みがキラキラと俺の視界に眩しいほど飛び込んできては、呆気にとられてパクパクと唇を震わせることしかできない。

「石神くんと勉強したとこたくさん出たの!」

弾んだ声が科学室に響いてカツンとローファーが鳴る。ようやく「追試合格」の情報が脳に届く頃、ちゃっかり俺の隣に居座った名字がほら!とテスト用紙を自慢げに広げて見せた。そこにはギリギリ補習回避の点数と教師からの「セーフ!」という文字が躍っている。どうやらあの勉強会は無駄ではなかったらしい、とようやく理解しては言葉を絞り出した。

「おーおー、めでてえなぁ」
「石神くんが教えてくれたおかげだよ本当にありがとう!」

にぱっと花が咲いたような笑顔と感謝の言葉を俺に向ける。その笑顔を食らって緩む口元を手のひらで隠しながら「そりゃなによりで」とぶっきらぼうを投げ返した。名字のアホ面を見てたらなんか色々ごっちゃごちゃ悩んでたのがアホらしくなるわ、とぼやきそうになるのを飲み込んでにこにこ呑気に笑っている彼女様の顔を眺める。

「メイク直してきちゃった」

その視線に気づいたのか、えへへと口元を緩ませながら頬に人差し指を当てた。補習を食らわなかったのが相当嬉しかったのか、数日地味メイクのペナを食らってた反動か、普段よりも鮮やかな色彩が彼女の顔を飾り立てている。復活!と派手なメイクで笑った名字はここ数日一度も見せなかった満面の笑み。その姿になんだか拍子抜けしてしまっては、俺もクククと喉を鳴らした。

「テメー遅ぇと思ったら化粧直してたのかよ」
「待たせちゃってごめんね、どうしても最高に可愛い私で石神くんに会いたくて」
「反動凄すぎるだろなんだテメーその瞼の色。殴られた後かよ」
「え?!かわいくない?!」

よく見て!とずいっと顔を近づけてぱちぱちと数回まばたき。そのたびに長いまつげが揺れて青がちらりと顔を覗かせた。思わず「近ぇ」と額を押して物理的な距離を取ろうとすると「ちゃんと見てよ」なんて不満そうな声が名字から上がる。
別に近いことが鬱陶しかったわけではない。が、数日前に事件を起こした手前、くっつかれてしまってはいろんな感情が勝手に渦巻いてきやがるもんで強制的に距離を取っちまったほうが楽だと判断した。
…それにしてもこいつ、数日前に俺がなにしようとしたのか忘れちまったのか?ほんっと無防備というかなんも考えてねえというか。自分の彼女ながら心配になるわ。

「あ!そうだ見てみて~!」

そう俺の気を引いて鞄を手に取る。いつの間にか復活していた空色ネイルが鞄に潜り込めば、ご機嫌に鼻歌交じりにごそごそ鞄を漁り始める。
指先ひとつでも可愛いを逃がさない。そんな彼女が「あった!」と声を上げれば空色が朝焼けのようなピンクを連れてきた。透明の容器に入った朝焼けの正体はリップグロスのようで、真ん中にブラシが沈んでいる。シンプルなデザインの容器や色に見覚えがあんな、と記憶を掘り起こすと追試前に「追試合格したら買う」と死亡フラグを立てていたリップだということに気が付いた。

「これすっごく可愛くない?!」
「テメー追試前にリップ買ってんじゃねえよ」

バレないと思っていたのか、俺から指摘を食らって「うっ」と呻き声を上げる名字。そして気まずそうに「我慢できなくて…」とご褒美を前借りしたことを白状した。

「勉強ばっかりでメイクしてなかったからこう…ムラムラして…」
「ムラムラ言うな」
「で、でも追試終わるまでは使わないって決めてたし!」

ほら新品だよ、と言ってリップを見せつけてくる。成分表しか興味ねえなぁ、とリップの底を見ようとすると「コットンキャンディ」と化粧品特有の謎色名が視界に飛び込んできた。化粧品業界も商品にいちいちそれっぽい呼び名をつけなきゃいけねえなんて大変なこった。

「成分書いてねえな」
「そう言うと思って箱持ってきたよ」

俺に見せるためだけにわざわざゴミを持ち歩いていたのか、はい、とリップが入っていた小さな箱を鞄から出して机に置く。その彼女様の好意にククク、わかってんじゃねえかとその箱を拾い上げると「彼女ですから!」と得意げな声。
さぞかしドヤ顔をキメてんだろうなと名字に視線を投げると案の定ふふーん!とふんぞり返っている。そんな彼女が可愛いやら愛おしいやら、ぐるりと感情をかき混ぜては小さく「調子に乗んな」と額を小突いて釘を刺した。

「嬉しいくせに~」
「あ゛?」
「だって石神くん、いっつも成分表見てるとき楽しそうだもん」

そんで、そんな石神くんを見るのが好き。
そんな譫言のような言葉を唇に乗せて、にまーっと笑う。科学の欠片もわかんねえくせに、科学に触れている俺が好きだと笑っている名字にザワリ心臓が騒いだ。…俺だってコスメだなんだ騒いでるテメーを眺めるのは嫌いじゃない。そう返事してやれれば良かったのに、どうしてもこの一言が重かった。

「このリップすっごくいい匂いするんだよね」

意気地なしを拗らせた俺に気づいているのかいないのか、ぱっと話題を切り返る。流れるようにスマホのインカメを起動して顔面を映し唇の色を確認すると、そのままずっと空色に握られていたリップの容器をひねった。そのままブラシを取り出すと名前の通り、綿菓子のような甘い香り。甘ったるすぎないそれを満足そうに眺めたあとに「勉強がんばってよかった…」としみじみ名字が呟いた。

「ククク、今回はマジで頑張ってたもんな」
「もう二度と勉強したくない」

そう呟いて取り出したブラシをぐ、と唇に押し付けた。途端にきらり、彼女の瞳に星が落ちる。スマホの中の自分と瞳を合わせながらゆっくり唇が色づけてはまばたきを繰り返す。ぱちぱちと瞼が上下するたびに星が零れ落ちそうで、そんな彼女からまるで目が離せない。そんな俺の視線に気づいた名字は悪戯に笑って俺に可愛いを強要した。

「かわいいでしょ!」
「あ゛~、かわいいかわいい。百億万点やるよ」

地味顔でも十分可愛い彼女様が自信満々に笑う顔が可愛くないわけがない。ましてや、勉強アレルギーが補習を免れたってんだから百億万点なんかじゃ全然足りない。

「俺からもなんかご褒美やんねえとなぁ」
「…へ、」

名字の頑張りをどうにか評価してやりたくて、思わずそんなことを呟いた。その言葉にただでさえデカい目を大きく見開いた名字がびっくりしたような声を上げる。

「ご、ご褒美?」
「つってもなにがいいか全然思いつかねえわ。パフェでも食いにいっか?」

最近できたカフェのパフェが気になるだの、新作フラペチーノが飲みたいだの独り言のように呟いていたことを引っ張り出して提案すると名字がぶんぶんと首を大きく横に振る。てっきりパフェで手を打つと思っていた俺はその反応に内心驚きつつ、しどろもどろな彼女の反応を伺った。

「んだよ、じゃあなにがいいか言え」
「な、なんでもいい?」
「俺ができる範囲ならな」

そう制約をつけるとコクコク小さく頷く。なんか欲しいモンでもあんのか?と名字からのオネダリを待つも名字は中々内容を吐かない。ぱくぱくと唇を震わせて少しずつ頬を紅潮させていく彼女の言葉を待っていると大きく息を吸ったのがわかった。そうしてぎゅっと目を閉じて、思い切ったようにこう告げた。

「こ、この前の続き、」
「…あ゛?」
「大樹くんがきちゃって、できなかったから…」

想定外の言葉にフリーズ。一瞬呼吸を忘れそうになっては、は、と短く息を吐く。まるで大樹が来て安心した、と言わんばかりに安堵の表情を浮かべていた彼女からそんな言葉が飛び出るとは夢にも思わないわけで。ご褒美にキスが欲しい、なんてあまりにも安上がりで難易度の高い要求に思わず息を盛大に飲みこんだ。

「無理しなくていいんだぞ」
「好きぴとキスしたくない女存在しないでしょ?!」
「声がデケえ!」

つまり、ここ数日俺があれやこれやごちゃごちゃ悩んで反省して距離まで置こうとしていたのはすべて杞憂。それに気づいてしまっては、ばくばくと逸る心臓がやかましい。それ以上に顔やら耳やらを真っ赤にしながら、手元をもじもじと落ち着きなく動かす名字が視線を落としながら「…だめ?」と俺を揺さぶるもんだから、思わず生唾を飲み込んだ。

「…だめなわけねえだろ」

あの表情の真意を聞く前に欲が勝ってしまっては、そのまま彼女の空色を絡めとる。指を絡ませてぎゅう、と握ると返事をするように名字も指先に力を入れた。ぱちっと視線がぶつかれば俺の欲を見透かしているように揺れる瞳。そうしてゆっくり顔を近づけようとするとこの期に及んで往生際悪く名字が声を上げた。

「ま、待って、リップ塗っちゃった…」
「は?」
「石神くんについちゃう、」

捕まえていない片手が鞄に伸びる。それを阻止するようにぱしっと捕らえて同様に指を絡めると「い、しがみくん、」と途切れとぎれな声が上がった。ご丁寧に飾られた唇に触れれば、その彩は俺のものになる。わかりきった展開にすらぐるぐると欲を掻き立てられては、もう止まれない。

「気にしねえ」
「で、でも…」
「目、閉じろ馬鹿」

散々俺を煽ったくせに、キスがしたいとねだったくせに、わずかに見せた抵抗は少しずつ弱弱しくなっていく。そうしてゆっくり大きな瞳が消えていった。行き場のない感情がぎゅうう…と指先に込められて少しだけ震えている。どちらのものか判別がつかない熱を共有して、溶ける感覚に脳がぐらぐらと揺れた。…これじゃどっちが馬鹿かわかんねえな。
覚悟を決めてゆっくり顔を近づけてあと数ミリ。お互いの息がかかってしまうほど顔が近づけば、それに気づいた名字がかちんこちんに緊張して強張っている体をぴくんっと小さく跳ねさせる。
少しでも緊張を和らげようと頭を撫でてやろうにも、両手はがっちり彼女を拘束しているもんで、それは叶わない。ぐぐぐと思い切り閉じられた瞼には悔しいほど鮮やかな青が踊っていて俺の行動を待ち望んでいる。そんな彼女が愛おしくって、思わず「ククク」と喉を鳴らした。

「名字。テメーが好きだ」

溢れた言葉と共にゆっくり唇を重ねる。ふに、と柔らかい感触とコットンキャンディのやけに甘い香りに思考を奪われれた。名字の唇の端から「ふ、」と息が漏れればそれを逃がしたくなくて少しだけ唇を離したあとにもう一度、数日前に邪魔された分を取り返すために唇を重ねた。

「…甘」

唇を離して飛び出たのは完全に吹っ飛んだ言葉。その言葉にゆっくり瞼をあけた名字が俺の顔を見てにへ、と至近距離でゆるく笑った。

「私も石神くんだーい好き」

こいつには敵わない。そう思い知らされては、このやけに甘い唇をどうしてくれようかと静かに息を吐いた。

公開日:2023年7月23日