#7 ド天然タラシ様恐るべし

石神千空がついに惚れ薬を開発しやがった。

そんな噂がまとわりついて早二週間。
んなもん開発してねぇよ!と何億回否定しても消えないそれは、球技大会の翌日からそれなりに俺を悩ませている。

なぜこんなことになったのか。
その元凶様がそろそろ呑気に登校してくるのを少しだけ待っている自分にも多大に問題があることを自覚しているためにため息一つも吐けやしない。

「石神くんおはよ!」

ほらおいでなすった。
いつも顔面には人体に存在しない色が乗っているがそれがよく似合う、いつもにこにこみんなの太陽、かわいい代表、俺の隣人。
長い髪に今日はなにも施されておらず、爪はいつも通り緑ベースに邪魔じゃないのか問い詰めるタイミングを失ってしまった飾りがじゃらり。

最近涼しくなってきたねと口にしながら鞄を机のフックに引っかけるためにひょこりと体を俺側に傾けた隣人に

「おー、ようやく暑さから解放されんな」

と適当に返事をしていたところ、普段彼女からしない甘い香りが鼻腔をくすぐった。
思わず体をびくりとこわばらせると異変に気づいた彼女がにへりと笑う。

「どうかした?」
「あ゛ー…なんでもねぇ」

そう、昨日。昨日までは爽やかな柑橘の香りを身に纏っていたはず。
それが今日は鼻につかない、彼女らしい控えめな甘い香りに変貌を遂げていて一瞬戸惑ってしまった。
昨日と今日でなにが違うのか邪心丸出しで彼女の挙動を眺めているとぱちりと目が合ってしまう。

「今日のメイク上手くいったの気づいた?」
「いつもと変わんねーじゃねぇか」
「全然違うんですが…今日の私いつもの二十倍はかわいいんですが…」

それは盛りすぎだろ!と思わず笑うと彼女もにこやかにやっぱ盛りすぎか~と気が抜けた返事を返してくる。

「今日はまつ毛が上手く巻けたんだよね。見てみて」
「ほーん」
「や、やっぱり見られると恥ずかしい…」
「どっちだよ」

こんないつものやりとりを楽しんでいると、ギロリと重たい視線を複数感じる。これは最近嫌ってほど感じる、嫉妬に狂った野郎共の醜い視線だ。
実際に複数人がこちらを見て様子を伺っていて居心地が悪い。
それと同時に、若干の優越感を得ている自分に驚く。

こんな殺伐とした状況に置かれているのはなぜかというと、にこやかに隣で笑ってる隣人が球技大会の日に「石神くんと入籍しました」発言をぶちかましたおかげだ。
杠から聞いたときはさすがにエナドリを噴き出した。

まぁあいつがそれでいいならいいけどよ、俺も悪い気はしねぇ。くらいにしか思っていなかったが、クラスの一部はそうは思わなかったらしい。
誰にでも優しくて明るい「かわいい代表様」が冗談でも科学オタクの俺と入籍したなんて言いやがったんだ、そりゃ俺が惚れ薬作って手籠めにしてるって噂もたつわ。

「一限目って世界史だっけ?」
「いや現代文だろ、今日木曜日だぞ」
「えっ?あっ本当だ!」

そんな視線も噂も気にせず今日もにこにこ俺に挨拶する隣人の鈍感さには感心する。
俺も気にしちゃあいねぇが、こいつの気にしてなさは俺も引くレベルだ。
大体なんで体操服貸しただけで入籍しました、になんだよビビるわ。
つーかあんな目立つ、胸付近に血の跡残したまま体育館に戻ろうとしてたこいつの気がしれねぇ。

あ゛ー、呑気に現代文の教科書探してる隣人に呆れを通り越して保護欲みたいなもんが沸いてくるわ。

「あぁー、現代文の教科書やっぱ家だ」
「ククク、あと3分で始業だな」
「石神くん教科書みーせて!」

そう言ってがたんと机を動かしてぴたりと俺の机とくっつける。
椅子を移動させ、物理的な距離が近くなった瞬間にふわり、と甘い香りにくらり。
そんな香りといつもより近い距離、少しだけ申し訳なさそうにお願い!と顔の前で手のひらを合わせて笑う。
そんな彼女に少しだけ胸がドキリと弾んでやかましい。
ああ、クソ、そういやこいつド天然タラシ様だったわ。

「しゃーねーな」
「さすが石神さま!」

ありがたや~と言いながら授業の準備を始める横顔を眺める。
長いまつ毛がいつもよりくるんと上向きに伸びていて、目元は涼しげに青系統で彩られている。
…腹立つくらいキレーな顔してんな。

いつもなんとなくまとめられている髪がさらりと自由に流れる。
いつもより四十センチほど近い彼女は少し手を伸ばすだけで触れられる距離にいて、なにを思ったかその長くて綺麗な髪をそっと撫でてしまう。
びくりと体を震わせた彼女が少しだけ戸惑ったようにちらり、と俺に視線を合わせて心臓が跳ね上がる。
なにしてんだ俺?!

「び、びっくりした、なにかついてた?」
「…髪まとめてねぇの珍しいじゃねーか」
「もう秋ですからね。あっもしかして上げてるほうが好き?なら休憩時間にマッハで髪編み込んでくるけど!」

鞄からサッとポーチを取り出すのを見てつい笑っちまう。
教科書はうっかり忘れるくせに、いつでもどこでも「かわいい」に対応できる隣人は自信満々に自分の髪を撫でていたずらに笑う。

「どっちが好きとか嫌いとかねーよ」
「そうなんだ、残念」

じゃあ石神くんが触りやすいように下ろしとくね!なんて笑うもんだから頭頂骨付近に思いっきりデコピンをかます。
いっ、と小さい悲鳴と頭を押さえながら唇を尖らせる普段は見せない顔に思わずクククと笑うとなにか思い出したように「あっ!」と短い声が上がる。

「そういや香水変えたんだけど嫌いな匂いじゃない?大丈夫?」
「あ゛?」
「甘い香り苦手な人もいるから…ダメなら言ってね、授業終わったら即洗い落としてくるから!あっ今から行こうか?1分あれば落とせる気がする!」

なんでこう、こいついっつも勢いだけは百億点満点なんだよ。
ダメとは一言も言ってねーだろ。

「ダメじゃねぇよ」
「ほんと?」
「むしろ前のより好…」

好きだ、と口にしようとして止める。
これだけは口にすると負けな気がしてならない。
それこそこいつの甘い無自覚の誘惑に屈することになる。
我ながらつまらない意地だ、情けねぇ。

「…お前らしくて嫌いじゃねぇ」
「ふふ、私らしいって言われるの嬉しいなぁ」

ふわりと笑う隣人には甘くも透き通った香りがよく似合う。
今まで髪をまとめていた隣人の唯一の爽やかな印象ががらり、一気に柔らかく甘い危険人物に。
…こりゃ嫉妬に狂った野郎に余計疎まれることになりそうだ。

「ククク…その香水のほうがよっぽど惚れ薬じゃねーか」
「惚れ薬?」
「あ゛?テメー噂聞いてねーのかよ」

噂話をうんうん相槌をしながら目を丸くして聞く様子を見ていると、本当に噂自体耳にしていなかったらしい。
なんなら、今も野郎共が睨んでるぞと伝えるとパッと顔を上げてきょろきょろ。
視線にすら気づいていなかったとは。
大丈夫かこいつ?

「女子たちは冗談で流してたし、男の子からじろじろ見られるの当たり前だから気づかなかったよ」
「今しれっととんでもねぇこと言ったなお前」

普段からこんなんかよ、居心地悪すぎて心折れるわ。

「じゃあ噂の石神くんは惚れ薬作ったことになってるんだ?」
「いい迷惑だ」
「で、私がその薬で石神くんに恋しちゃったって?」

あはは!と笑い飛ばすお気楽な声にため息が出る。おいおい、当事者だぞ自覚あんのか?
一通り笑ったあとにぐーっと伸びをしながら惚れ薬ねぇ、と呟く興味なさそうな声。
確かにそんなもん、こいつには一生無縁そうだ。

「もし惚れ薬があっても私には効かないよ」
「あ゛?なにを根拠に」
「それは内緒」

左手人差し指をピンと立ててそれを唇に当てる。
相変わらずニコニコしている表情からはなにも読めない。
どうせくだんねー理由だろうが、妙に自信満々で引っかかる。
しかし隣人はお構い無し。顔をしかめる俺に、少しだけ間が空いたあと「あ、でも…」と言葉の続きを吐き出した。

「もし石神くんが私に惚れ薬使ってくれるなら、う、嬉しい、かも…」

ド天然タラシ様恐るべし

少しだけうつむき気味に、それでもまっすぐ俺の目を見てそんなことをほざく。
少し赤い頬はもう夏のせいなんかにはできない。

「お前それ、どう捉えられっかわかってんのかよ」と口にする前によりにもよって始業を伝えるチャイムが鳴り響いた。
サッと前を向いてしまう彼女の頬はまだ赤く、余計に俺を混乱させる。

いつもより近い真横数センチ、時折教科書を覗きこむ横顔、たまに香る惚れ薬。
目が合うとにへりと笑いかけてきてとんでもねぇ。

あークソ!こいつに調子狂わされっぱなしだ!

公開日:2020年7月21日