#1 初めてリップを買い逃した日

ネイルはキラキラ、まつ毛は大げさなくらい巻いてアイシャドウは控えめチークは大胆に、仕上げに夏色リップを乗せたら私の今日が始まる。
毎日かわいくなれる魔法、私はメイクが大好き。
今日はお気に入りのブランドの新作リップが発売されるからいつもの3倍は足取りは軽やかで、いつもの5倍は授業が億劫だ。放課後になったら買いに行くんだーなんて友達と会話してようやく念願の放課後にたどり着いた。
るんるんで階段を降りながら新作リップ以外買わないように!と自分に言い聞かせていたところ、最後の一段。
たった最後の一段で油断し、つるりと足を滑らせ落下。キャアアア!なんて思いの外可愛い声と鞄の中身が盛大にぶちまける音が廊下に響く。
やっちゃった、と思う頃にはもう私は廊下に座り込んでいて床にはコスメが散乱していた。いたたたた。

「おい、大丈夫か?」
「あはは、転んじゃいました~」

と笑いながら、声をかけてくれた人をにっこり見るとそこにはクラスメイト、なんなら隣の席、科学大好き石神千空くんがいた。
隣の席歴三ヶ月、一度も会話したことないのに初めての会話がこれになるとは。

「は、恥ずかしいとこ見られちゃった」
「あんなデケー音したら誰でも見るわ」
「確かに。」

メイク用品の殺人現場のような惨状に座り込んだままの私。はっとして床に無残に落ちているプレストパウダーを拾い上げる。

「あぁー!割れちゃってる…」

一目惚れしたケースの中身を確認すると少しだけヒビが入ったプレストパウダーが視界に飛び込んでくる。かわいい色だったのになぁと落胆していたら石神くんがヒビを覗きこんできた。

「こんくらいなら直せるぞ」
「本当?!」

とりあえず立て、目立つ。と手を差しのべられおずおずとその手を取る。床に散乱した私の相棒たちを回収して石神くんに言われるがまま科学室に向かう。
今日は科学部おやすみなの?と聞けば、試験前だかんなとしぶしぶ休みにさせられたといわんばかりの言葉が返された。

「あ゛ー…化粧水はねえから揮発すっし無水エタノールで」
「化粧水あるよ」
「ならそれ使うわ、あとは爪楊枝とラップがありゃ」
「持ってるよ」
「てめーは未来から来た猫型ロボットかよ」
「いやぁ化粧品専門ですけど~」
「すげえわ」

てっきり馬鹿にされるものだとばかり思っていたから石神くんの反応が意外で私は三ヶ月も石神くんのことを誤解していたのだと知った。

「といっても俺より杠がやったほうがいいな。呼び出すか」
「ユズちゃんなら大樹くんとラブラブ下校してたよ」
「はーんそいつは邪魔できねえなぁ」

貸せ、と言って割れたパウダーを手にとり丁寧に化粧水を垂らす。彼が扱うとまるで科学実験みたいで面白い。

「助けてくれたのが石神くんでよかった。」
「んだよ急に。」
「パウダー直してくれてるし、私のこと化粧しか頭がない馬鹿女って言わないし。」

にひひと笑うと石神くんが手を止めた。しまった、初めて話した彼に言うことじゃなかったかも。まっすぐ私を見据える彼の真剣な瞳に思わず視線を外してしまいそうになる。

「言われたことあんのか」
「…あるよ、なんなら言われないことのほうが稀」

好きなことしてるだけ、かわいくなりたいだけなのにね、と思わずこぼす。あ、やばい、泣いてしまいそうだ。

「お前、毎日一人のときは雑誌開いてメイクだのコスメだの研究してるだろ」
「それはもう狂ったように。」

今にも涙がこぼれそうなのを隠すように笑って誤魔化す。泣き顔は全然かわいくないから。

「そういう地道な努力積み上げれるやつ、俺は嫌いじゃねえんだよ。」

ああ、こんなに近くに私を認めてくれる人がいるとは思わなかったなぁ。

「石神くん、ありがとう。
今度石神くんのパーソナルカラー診断してあげるね、最強コスメでフロア沸かせていこ」
「お前元気じゃねえか心配して損したわ。」

なんだか彼の不器用さに笑ってしまう。明日から毎朝おはようって声をかけてみよう。今日のリップ最強じゃない?と聞いたらどんな反応をするのかな。
なんて考えているうちに、ほれ、と割れていたパウダーケースを投げ渡される。上手くキャッチできたものの心臓が口から飛び出るかと思った。

「ま、また割れたらどうすんの!」
「何度でも直してやるよ」

そう不敵に笑う彼。
その表情に、なんだか、とても。

「あっありがとうね!今度タピりに行こう奢るよ!」
「行かねえわ、とっとと帰りやがれ」

なんだかとても、胸がときめいた。

また明日なんて余裕あるように見せて、科学室から出たものの、握りしめたパウダーケースにまだドキドキしてしまう。感情が追い付かずに走り出した私は胸の高まりを隠すように、ただただ帰り道を走った。

自分の部屋に飛び込んで呼吸を整えてもなお、胸が彼を想って叫ぶ。しまった、私って案外チョロいかも…。

「あ、新作リップ買いに行くの忘れてた…」

初めてリップを買い逃した日

私はどんなコスメよりも魅力的な恋をした。

公開日:2020年6月18日